ベネルクス三国の旅 2日目後編  オランダ (アムステルダム)

昼食の後 午後は国立美術館の見学、運河クルーズ、市内観光です。

国立美術館
今年の4月に10年近い改修を終えたばかりのアムステルダム国立美術館。訪れるのにはとても良い時期に恵まれました。この国立美術館は「ライクス・ミュージアム」と呼ばれていて、17世紀オランダ絵画が充実しています。

荘厳な建物は中央駅で有名なJ.P.H.カイペルスが1885年に手がけたもので、世界で初めての美術館建築です。
                 

オランダの交差点は、自転車優先になっている場合が多いので、慣れない私達は自転車にぶつからないように注意しながら国立博物館に向かいました。
          

オランダの自転車事情
この美術館の改修工事が遅れに遅れた理由は多々あるのですが、その一つに「自転車」論争がありました。
アムステルダム市民はこの美術館のエントランスで南北へのアクセスを確保していて、美術館を通り抜ける自転車は1日13000台にものぼるといいます。改修工事の改修案では自転車が通りにくくなると言うことで結局
カイペルスのファサードはそのままに南北に走る中央ギャラリーもオリジナルの姿に修復するにとどまったそうです。
国土が小さく低平なオランダでは、自転車利用者の要望が都市政策のあらゆる分野に取り入れられるようになっていて、市街地は多くの場合、自転車利用者と歩行者が自動車よりも優先されるようになっているのです。

館内に入ると多くの人で賑わっていましたが、これでもこの日は空いている方だそうです。
          

アムステルダム国立美物館最大の見どころはレンブラントの「夜警」です。まずは「夜警」からご紹介します。

「夜警」の前には人だかりが多くなかなか近づけません。
高さ3.59m・幅4.37mもあり迫力があります。
                     レンブラントの大作『夜警』1642年
          

「光と影の画家」であったレンブラントが手がけたオランダの至宝ともいうべき大作「夜警」。
自身の人生を、文字通り“光”と“影”とに分けたこの大作を前に感慨ひとしおでした。
          
肖像画家として名声を得ていたレンブラントは、1642年アムステルダムの火縄銃手組合市備団から制作依頼を受け、この絵を描きました
前面の強い光と、闇に沈むバックに独特の劇的効果を考えた(この効果のため“夜警”と言われていますが、実際には昼間の警備を描いたものです)この大胆な手法は当時の人々に受け入れられませんでした。

完成した作品を見て市警備団の18人は激怒しました。制作費は皆同額の金額で払っているのに、まともに書かれているのは2人だけで、他は絵の奥に小さな姿態や表情、あるいはぼかされたりして描かれており実際の姿とは全く違っていることに、隊員たちの怒りは嘲弄に変わり、それが広まったためレンブラントへの制作依頼は全く来なくなりました。又この集団に、ひとりだけ全く雰囲気の異なる少女がかなり目立つ場所に、光輝くように描かれています。この少女のモデルは、同年に亡くなった妻サスキアと言われています。事情を知らない依頼主たちからは、この少女の存在も非難の対象になってしまったそうです

当時、集団肖像画は裕福な団体や組合のステータスでした。「夜警」は発注主が均等に支払いをしたため、全員を満足させる必要があったのです。皆を公平に描くためには、全員を横並びに描くかテーブルの周りにメンバーを配置するのが一般的でした。

この絵をきっかけにレンブラントの人生は大きく変わって行きます。
また、この作品の描かれたと同じ年に愛妻サスキアをなくし、投機にも手を出し、浪費の限りを尽くすようになり、女性問題のスキャンダルも加わり、その生活は貧困の一途をたどります。
「夜警」のことから14年経った1656年にレンブラントは破産を宣告されました。
最後はアムステルダムユダヤ人街で看取るものもなく息を引き取りました。

ちなみに『夜警』という題名は18世紀に付けられた通称です。本当のタイトルは
『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊』
といいます。 装備を携え、今まさに警備に出ようとするまさにその瞬間が描かれているのです。
1715年、それまで掲げられていた火縄銃手組合集会所のホールから、ダム広場のアムステルダム市役所に移された際、市役所の部屋の二本の柱の間に絵がきちんと納まるようにはみ出す部分『夜警』の上下左右が切り詰められてしまったそうです。

レンブラントの他の作品              

「夜警」以降の彼の作品は、宗教に題を取った、人間のうちに潜む動物性と崇高で神聖な信仰の世界との対比を多く描いています。

『聖パウロに扮した自画像』
1661年  
レンブラント晩年期を代表する自画像作品のひとつ『聖パウロに扮した自画像』。
画家が破産し、家族や弟子と共にそれまで住んでいた豪邸から半分ほどの広さの借家に引越した頃に描かれたこの作品は、心臓に近い懐へ差される短刀や、神の言葉を象徴する書物など伝統的なアトリビュートが示すよう、キリスト教弾圧のためにダマスクスへ向かう道中に、突然天からの光に照らされ主イエスの声を聞き、熱心なキリスト教徒へと改宗して布教に努め、後にキリスト十二使徒として数えられた「小さいもの」を意味する≪聖パウロ≫に扮した自画像です。この作品では聖人パウロに扮するという自己の顕示がなされていますが、その表情は非常に内向的で憂鬱な雰囲気に満ちています。この悟りとも諦めとも解釈できる複雑な感情を内面へ秘めた画家の表情は、聖パウロの残した書簡集の深い精神性と共通する独特な世界を観る者に連想させます。   
          

アムステルダムの布地ギルドの見本監察官たち』  
これも「夜警」と同じく集団肖像画です。集団肖像画はオランダの繁栄と共に誕生しました。
17世紀初め、スペインから独立を勝ち取ったオランダは積極的に海外に乗り出していきます。その中心となった東インド会社は日本や東南アジアと貿易を行い、豊な富をオランダにもたらしました。お金持ちになった市民たちは部屋を飾るため絵を買いました。当時オランダは、どの国よりも多く市民向けの絵画の市が開かれていました。そうした中、市民の中で大流行したのが大勢の人々を1枚のカンバスに描く集団肖像画だったのです。
          

『イサクとリベカ、別名ユダヤの花嫁』1667年  
レンブラント晩年の作品。聖書の中の話で、描かれているのはイサクとリベカ。レンブラントは聖書の話をもとに、いくつか作品を描いています。
モデルは息子のティトゥスとその妻ともいわれています。しかし1668年にティトゥスは急死してしまいます。
サスキアとの間に生まれた子供たちのうち、唯一成人出来た子でした。
          

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見どころはレンブラントの他にも フランス・ハルス、ヤン・ステーン、フェルメールの巨匠たちによる絵画。
1676年のドールハウスがあります。
                         

ヨハネス・フェルメール『手紙を読む青衣の女』
壁に掛けられた世界地図は手紙の送り主が現在は外海にいることを暗示しているほか、妊娠しているとも推測される手紙を読む青衣の女に関して、一部の研究者からはフェルメールの妻カタリーナをモデルにしたとも考えられています。
          

ヨハネス・フェルメール『牛乳を注ぐ女』 
 忠実な写実のように見えるが、実際にはこの変な形のテーブルに、これだけの物は
乗りきらないことが実証されています。フェルメールは、注がれる牛乳に視線が行くように計算し、テーブルの手前の角を故意に変形させて描いたそうです。
          

ヨハネス・フェルメール『恋文』 
手紙を読み、書き、受け取る女性は、フェルメールの得意としたものである。この作品では、手紙を受け取って当惑顔の女主人と、訳知り顔の女中が描かれ、物語の細部は鑑賞者の想像にゆだねられています。女主人が手にしている楽器シターンは恋愛と関係の深いモチーフです。また、背後の壁に掛かる海景を表した絵は、女性の揺れ動く心を象徴しているのです。洗濯物の入った籠や画面手前に見える箒は、恋に落ちた女性が(17世紀当時の価値観では女性の義務であった)家事をおろそかにしていることを暗示している。女主人と女中の描かれている長方形の空間を「鏡」であると見なす研究者もいます。
          

ヨハネス・フェルメール『小路』1658−1659年 
フェルメールの数少ない風景画のひとつ。故郷、デルフトの街路を描いた作品です。
          

ウィレム・クラース・ヘダ『鍍金した酒杯のある静物1635年
          


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この美術館のドールハウスも見逃せません。
中には17世紀の大きなドールハウスもありました。大きくて、移動式階段に登って中を覗くようになっています。当時ドールハウス1個が高級住宅と同じ値段したものがあったそうです。
          
          
1676年につくられたドールハウス
          

              

ガイドさんに丁寧に1枚1枚の絵を解説して頂き、アムステル国立美術館を堪能した後は
アムステルダムのシンゲル運河の内側にある17世紀の環状運河地域
をクルーズで廻ります。       
2010年に登録された世界遺産文化遺産)。オランダの首都アムステルダムのシンゲル運河内にある環状運河地区。16世紀末から17世紀初頭にかけ、都市計画に基づいて建設された地域で、旧市街を囲む同心円の運河網が特徴的です。運河を利用して湿地から水を排出し、運河と運河の間を埋め立てることで町を拡張していきました。そこには切妻造りの建物や記念碑的建物が建ち並び、整然とした景観の町並みとなっています。また運河は地域の防備をも兼ねていました。19世紀まで大規模な都市計画のモデルとして世界的に注目されていました。

ハイネケンのビールの建物の前の船着き場から乗船。ガッサン・ダイヤモンド工房まで約1時間の運河クルーズを楽しみます。
          

          

          

          

プリンセン運河
プリンセン運河はアムステルダムの主要運河の4番目で、もっとも長い運河です。運河沿いの建造物群のほとんどは、ネーデルラント連邦共和国の黄金時代に建てられたもので、運河に架かる橋はヨルダーン地区にはつながっていません。ヨルダーン地区とは、かつてスペインやフランスでの非カトリックに対する弾圧から逃れてきた人々の居住区となっていた歴史地区です。
プリンセン運河沿いの観光名所としては、北教会、北市場などのほか、 アンネ・フランクの家があります。。アンネの家は1635年に建てられたものですが、18世紀に裏側部分が増築され、アンネたちが隠れ住むのに使われることになりました。
                    アンネの家
                沢山の人が並んでいました。
          

          

アンネの家の近くのカイザー運河沿いに、市内でもっとも高い鐘楼を持つ西教会が建っています。1631年に建造されたプロテスタントの教会。アンネの家入場の列に並んでいるときも、高さ85mの塔から「が〜ん、が〜ん」と鐘の音が響いていました。
 教会では、1966年にベアトリクス王女とC.フォン・アムスベルクが結婚式を挙げ、画家レンブラントが埋葬されています。鐘楼の鐘は7.5㌧もあり、鐘の音はアンネの日記に記述されて有名になりました。教会ではカリヨン演奏なども行われます。
          
           

                     フィルムミュージアム(白い建物)
          

ハウスボート
生活に不自由しないインフラが整っているそうで、人気があるそうです。
          

16世紀初頭に造られた、モンテーンバーンの塔。城壁の見張り塔。 
          

クルーズの終着点はダイヤモンド工房。
アムステルダムは、世界の王室のダイヤモンドを研磨してきた都市として有名です。
アムステルダムの代表的な工房ガッサン・ダイヤモンドを見学しました。

ガッサン・ダイヤモンド研磨工場
          

          ダイヤモンドをカットする様子       121面カットダイヤモンドの展示
                    

クルーズの後は車窓から市内観光です。
アムステルダム市内を車窓観光
マヘレ橋
アムステル川に架かったマヘレの跳ね橋は、アムステルダムで最も有名な橋です。1934年に架けられ、ケルト通り近くの川岸間を結びました。1691年よりまさしくこの同じ場所に橋が架かっており、ケルト通り橋と呼ばれていました。1994年までは橋の作業員2人が開閉していました。
                    

王宮とダム広場
ダム広場はもとはアムステル川をせき止める堰(ダム)のあった場所であす。「アムステルダム」の市名の語源であり、歴史的な中心地です。広場の西に接して王宮がある。これはもともと市役所として建てられたものです。
          
                        中心部のショッピングエリア
          
中央駅
駅舎は建築家P.J.H.カイペルスとA.L.ファン・ゲントによって設計されまし。アムステルダム中央駅はオランダにおいて著名建築家によって設計された最初の駅です。それまでは鉄道の技術者や無名の建築家が設計していたが、アムステルダム中央駅はその重要性からアムステルダム国立美術館を設計した実績を持つカイペルスが起用されました。ネオゴシックとネオルネサンスを融合させた様式であり、国立美術館とは強い類似が見られます。東京駅丸の内側駅舎はアムステルダム中央駅をモデルにしたとする説があります。
          

下の写真をご覧になると家が横にも前にも傾いていることがお分かりに居なると思います。。
横に傾いているのはアムステルダムは運河に囲ま れた街で地盤が緩いのか 建物が傾いてきてるのです。
前に傾いているのはオランダは雨が多い国である為、家が前傾していると壁伝いに湿気が入り込むのを少しでも防ぐ為、そして間口が狭い為、大きな荷物は家の軒にあるフックに紐や鎖を引っ掛け、吊り上げる形で窓から出し入れする為建物が前傾していると作業がしやすいのでわざわざ前に傾斜させて作ってあるのだそうです。
          
軒にある荷物を釣り上げる時に使うフック
          

これからイビス・エアポートホテルに戻り夕食を頂きます。
夜には珍しいビュッフェスタイルです。

今日も盛り沢山の体験ができた1日でした。