筑前町に行こう(其の一)

昨日『筑前町に行こう』と言うツアーに行ってきました。

博多8:30−キリンビールポピー花園見学―筑前町立大刀洗平和記念会館−昼食(ファーマーズマーケットみなみの里)−本格むぎ焼酎「天盃」倉見学−大己貴(おおなむち)神社拝観−国指定史跡 仙道古墳見学−らいおん果実園でいちご狩り体験―博多17:30

地域の魅力を知ることが出来る、NPO法人九州地域交流推進協議会が企画するバスツアーに参加するのは今月は2度目です。

今回、是非訪れたいと思っていた筑前町立大刀洗平和記念館
その前にキリンビール工場に咲いているポピーの見学です。
キリンビール工場は以前見学したことがありますが、「キリン花園」は初めてです。

この後、筑前町立大刀洗平和記念館で観た映画でわかった事なのですが、キリンビール福岡
工場の敷地は、戦前は大刀飛行場の東端の一部
だったのです。

キリンビール福岡工場 「キリン花園」のポピー
約7haのビール麦の試験圃場跡地を利用した花園に、約1000万本のポピーがさいています。
一面満開のポピー、これ程沢山咲いている風景を見たのは初めてです。この風景ウキウキします。
          

筑前町立大刀洗平和記念館
筑前町が「戦争の歴史を残し、平和の大切さを語り継ごう」と甘木鉄道太刀洗駅前に建設した記念館です。

ここはかつて旧陸軍が東洋一を誇った大刀洗飛行場があったところです。
1919年に中国や南方への拠点として旧陸軍が建設。朝倉市大刀洗町筑前町にまたがる面積約152万平方メートルの一大基地で、戦局の激化に伴い特攻基地になりました。
一大軍都が存在し、歴史的な役割を果たしながら大きく発展していきます。 しかし、昭和20年(1945年)3月、米軍の大空襲により壊滅的な被害を受け、民間人を含む、多くの尊い命が失われました。

建物は、飛行機の格納庫をイメージしています。外観は格納庫を模したカマボコ型です。
          

元特攻隊員だった花道柳太郎氏(87)のお話を伺いました。
昭和20年5月25日大刀洗飛行場から4機の特攻機が出撃し、その内の2機(さくら弾機)が散華、
残りの2機(ト号機)は米軍機動部隊を発見できず帰着します。出撃から67年目となる日に、このト号機の航法士であった花道柳太郎氏(和歌山県在住)が当時の体験をお話してくださいました。

          

花道氏は終戦4カ月前、茨城県・西筑波飛行場からご自分が特攻隊とも始め知らずに大刀洗飛行場に来たそうです。

生きて帰ることができた偶然、帰還した特攻隊員ということを30年間隠し続けてきたことなど当時の様子を詳しくお話してくださいました。

偶然の重なり、花道氏は生きて帰れたことをしみじみと話されます。
1度目はお腹をこわし、出撃の日がずれたこと。予定された日に乗った方が亡くなられた様子。
そして、1945年5月25日、戦闘が激しかった大刀洗飛行場から800キロ爆弾を二つ積んだ特攻機で沖縄西方沖に出撃した20歳になったばかりの花道氏は 悪天候の為、米艦隊を発見ず鹿児島に不時着、助かることが出来たこと。

花道氏は生きて帰ってきたことが恥ずかしく、戦後もずっと黙っていたそうです。
特攻隊員に指名 された時「本当は死にたくなかった、生きていたかった」と、正直に その時の思いを話されました。

鹿児島の海軍に不時着した時に、そのころ特攻隊員は生きて帰って来てはいけない事が
普通だったのに、上部の人が生きていたことに対し咎めなかったことを花道氏は感慨深く話されました。このお話に私も当時の人の本当の心の中を知ることが出来たような気がしました。

花道氏が生きていらして、このようなお話をして下さることは本当に貴重なことです。
戦争の悲惨さや当時の人びとの思いを、語りを通して聞くことによって、より心に深く平和への思いが湧いてきます。直接このようなお話を伺うことが出来た私たちにも、戦争の悲惨さを風化させない役目があるように感じました。

次に大刀洗飛行場に関する映画を観ました。
1945(昭和20)年3月27日と31日に、大刀洗飛行場は米軍の空襲を受け、壊滅状態となり兵士だけでなく多くの犠牲者がでて、頓田の森に逃げた立石国民学校一ツ木地方の児童たちが投下された爆弾の犠牲となり、32名の幼い命が失われました。一度にこれほどの児童が亡くなったのは、沖縄戦とこの大刀洗だけだそうです。当時の大刀洗飛行場の様子と共にその状況を映像で観ると、想像では計り知れない現実の様子が分かります。

館内には、写真や当時を語る生存者の証言の映像、資料、航空機の模型、実物の97式戦闘機などが展示されていました。知覧の時と同様、涙が出てきます。

館内で撮影することが出来るは下の写真だけでした。

マーシャル諸島タロア島で発見された残骸を中日本航空が復元した零戦 「32型Y2−128」
現在日本国内に零戦は10機保存されていますが32型はこの1機だけだそうです。
          
この「零戦」は、昭和16年(1941年)三菱重工名古屋工場で製作され、総生産数343機中現存する1機です。この型式は速度性能を良くするため、翼端を切った珍しい機種です。第二次世界大戦初期には長大な航続距離と重武装で優れた格闘性能により、連合国の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収めたことから、当時の連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられました。展示の飛行機は第252航空隊柳村部隊に所属し、マーシャル群島タロア島を基地として活躍していました。昭和19年2月頃米軍機の攻撃によりエンジンに損傷を受けて飛べなくなり、滑走路のそばに置かれたまま、終戦後ジャングルとなった同島で眠っていましたが、昭和54年(1979年)同島を訪れた、元米軍人によって発見され、サイパン島で補修され、その後、福岡航空宇宙協会の折衝により同機を譲り受け、苦心の末これを祖国日本に持ち帰られました。

                   操縦席を覗いてみました
          
これと同じ型の飛行機が、大戦末期には多くの日本機と同様にあの悲惨な攻撃の特別攻撃隊機としても使用されたそうです。ここに乗り込むときの気持ちを考えると胸が痛くなります。


大刀洗平和記念館から昼食場所の「みなみの里」へ
記念館を出ても、この付近が飛行場だったと言うことを物語る形跡があちらこちらに見ることが出来ます。
今回筑前町役場から3人の方が来てくださり、いろいろお世話をして頂きました。
その中の1人、古閑めぐみさんがバスの中でも色々説明して下さいました。
航空技術兵学校「第五航空教育隊正門」の正門 
                      (バスの中から撮影)
          
昭和14年(1939年)開隊した航空技術兵学校「第五航空教育隊正門」の正門。最大時には6000人の航空技術兵が在籍していました。この部隊では教科科目として、飛行機機体・機関発動機・板金・精密機械・銃砲火器・通信機材・自動車・無線・旋盤・鋳造・各燃料・落下傘など航空機にかかわる全てを教わっていました。他には、飛行場大隊などの編成もここで行われていました。
元は国道500号線沿いの山隈交差点に立っていましたが、平成22年1月に当館に移設されたものです。

戦前大刀洗飛行場本部前に設置されていた時計台。現在は慰霊塔になっています。  
                      (バスの中から撮影)
          

飛行第四連隊(飛行学校)正門
          
大正8年(1919年)大刀洗飛行場にて「飛行第四連(戦)隊」の正門として長く使用されていました。中国大陸や南方へ飛行第四連隊が出撃をする時はこの門をくぐり、また帰還しました。しかし、連隊が先の大戦を控え、熊本県菊池へ移動した後の昭和15年(1940年)秋からその跡に開校した大刀洗陸軍飛行学校の本校の正門として使われるようになります。もともとは原地蔵公民館北側の交差点に設置されたものだそうです。

広々とした麦畑が収穫を待っている今は平和なこの町。
          

しかし、重爆用の北飛行場滑走路跡が今も残っています。バスが走っているこの道も・・・。
現在は生活道路の一部になっています。
          

民家が建っている敷地(地面の一部)に見えるコンクリ―ト。これも滑走路の跡だそうです。滑走路の跡に民家が沢山建っていました。このようなことも説明して頂かなくてはなかなか分かりませんが、NPO法人九州地域交流推進協議会が企画するバスツアーでは、毎回地元の方々が詳しく説明して下さるので、より深くその土地の歴史なども知ることが出来ます。
          

ファーマーズマーケットみなみの里で昼食

筑前田舎料理を頂きました。筑前煮はおかわり自由です。美味しかったのでおかわりをしたかったのですが、その前にお腹がいっぱいになりました。小鉢のおからと筑前黒豆クロダマル(黒豆)の和え物もとても美味しかったですし、クロダマルのデザートは抜群でした。
          
お食事の後はこちらの農産物売場でお買い物をしました。
新鮮な野菜と、クロダマルを購入。キャスター付のバックを持ってくれば良かった・・・。
          

この後本格むぎ焼酎「天盃」倉見学・大己貴(おおなむち)神社拝観・国指定史跡仙道古墳見学
らいおん果実園でいちご狩り体験と、まだまだツアーは続きます。

これら昼食後の体験は次回のブログでご紹介したいと思います。