田川市石炭・歴史博物館

昨日ご紹介した山本作兵衛氏は、現在の福岡県飯塚市生まれです。7歳から父について兄とともに炭鉱に入り、立岩尋常小学校を卒業後、1906年に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となりました。以後、採炭員や鍛冶工員として、筑豊各地で働きました。

筑豊は、主なエネルギー資源が石炭であった時代に多くの炭鉱を抱える地域として繁栄しました。筑豊の主な都市は、飯塚市直方市田川市です。
福岡に来るまでは、私は炭坑についてあまり知識がありませんでした。
そこで、炭坑のことを知るためと、昨年日本で初めて世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の絵を見るために、田川市石炭・歴史博物館に行きました。


田川市石炭・歴史博物館

歴史博物館は石炭記念公園の中にあります。シンボルは旧三井田川鉱業所伊田竪坑の竪坑櫓と二本の煙突です。
 
月が出た出た月が出た・・・・あんまり煙突が、高いので、さぞやお月さん、煙たかろ…の「炭坑節」の歌詞で有名な二本の巨大な煙突が当時の面影を残しています。
                    

歴史博物館の敷地には地下深部の石炭を採掘する竪抗の捲揚機、石炭の輸送に使われたSL,採掘に使用されたロードヘッダーなどの大型機械が展示されていました。
          
   
館内の展示室は3か所に分かれています。
第一展示室は「石炭を作った新生代の植物のイラスト」「二対田川伊田坑の模型」「手掘り道具」「機械採炭道具」「採炭現場のジオラマ」「川ひらた(川舟)の模型」「ミニSL」の展示。
               
第二展示室は山本作米衛の記録画の展示。
記録絵は細かいところまで正確に書かれています。
絵と余白に書き込まれた解説文から筑豊の当時の炭坑の情景が手に取るように分かります。
記録絵の中には墨画も展示されていました。坑内は暗かったのでこの墨画が現実です。

ボタ山よ汝人生の如し 盛んなるときは肥えふとり ヤマ止んで日日痩せほそり 或いは姿を消すもあり あゝ哀れ悲しきかぎりなり」  山本作兵衛の絵には、普段の炭鉱での暮らしから、出水やガス爆発、逃亡者へのリンチ、米騒動を鎮圧する軍隊のことも、詳しく書かれていました。絵や資料からは人間扱いされなかった過酷な労働の実態が伝わってきます。
この記録絵が無ければ、おそらく当時のヤマの状況は詳しくは伝わら無かったと思います。

          

          

          

第三展示室には田川地方の歴史と民族をテーマに郷土の歴史資料が展示されていました。

案内して下さった炭鉱語り部の原田巌さんは、父親が炭抗夫だった為、屋外展示場に建っていた炭鉱住宅で育ったそうです。やはり実際そこで生きた人でなければ出来ない説明をしてくださいました。素晴らしい美声で炭坑に関わる歌を歌いながらの説明は最高でした。
炭鉱住宅のことも詳しく説明して下さいました。住宅は炭鉱会社により作られ、光熱費を含めた家賃が無料だったそうです。炭坑での賃金は高く(原田さんのお父様の時代)住宅費は無料であったために、実入りは高かったようです。しかし、展示からも理解できるように、毎日が危険と隣り合わせの仕事だったようです。
                         炭鉱住宅
          
後ろに見えるのがボタ山(石炭又は亜炭に係る捨石が集積されてできた山の事)
          

炭抗夫の毎日命がけで働かなければならなかった炭鉱の状況を見た後、炭鉱を経営して石炭王になった邸宅の見学に行きました。

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伊藤伝右衛門
伊藤伝右衛門邸は、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門歌人柳原白蓮が過ごした邸宅
です。
アールヌーヴォー調のマントルピース、イギリス製のひし形のステンドグラスのある応接間、一畳たたみを敷き詰めた長い廊下等様々な芸術的技法を取り入れ、伊藤伝右衛門が妻白蓮の為にと改築を続けた歴史的建造物です。案内の人の説明を聞きながら各部屋を見学しました。
大正天皇の従妹の白蓮を妻として迎え入れる為、旧伊藤伝右衛門邸の改築を行ったそうです。
敷地面積約2300坪という敷地に、部屋数25という広大な家屋です。その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという、細やかな美の技法に満ちています。長押(なげし)に施された精巧な木彫、落ち着いた雰囲気の聚楽壁、帯地をほどいて埋め込んだ壁に竹を組んで作られた網代天井等…まさに贅を尽くした豪邸です。特に二階の白蓮の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、白蓮好みに仕上げています。また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は白蓮に精一杯気を使っていました。(この結婚の悲劇は、ご存知の方も多いと思いますが、又折がありましたらご紹介させて頂きたいと思います。)
          
          

                                       
          
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麻生大浦荘
筑豊御三家の一つに数えられた麻生家の別邸で、現在は麻生グループのクラブとして利用されています。(麻生太郎氏の実家)数寄を凝らした和風入母屋書院造りの美しい邸宅は大正末期に建てられたと言われています。柱の1本1本が1本の原木から数本の柱しか取れない非常に高価な材木を使用しています。室内もさることながら、私が凄いなと思ったのは庭園の背景となっている森。
これが自然の物ではなく植樹してつくられたものだということです。

                            

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この日は嘉穂劇場にも立ち寄りました。
当時筑豊地域の中心産業であった石炭炭鉱の労働者とその家族が中心で、大衆演劇や歌手の公演などで賑わった劇場です。
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日本初の世界記憶遺産に山本作兵衛の記録が登録された年、皮肉なことに福島第一原子力発電所が爆発しました。エネルギー資源が石炭から石油そして原子力発電の時代になり、かつて全国の炭坑夫が翻弄されたように、福島第一原発の事故の収束を支えている過酷な状況下で働く
多くの下請けの作業員の今後はどうなるのでしょう。
原発は炭坑節のような歌すら残すこともなく、将来にわたり広範囲に放射能と言う負の遺産を残し続けます。ボタ山に代わり、汚染された防御服や土がどんどん増え続けています。

2011年3月11日以来、心の奥底にいつも悲しみがあります。今 原発で起きていることを、正確に記録して後世に残していかなければいけないことを山本作兵衛は教えているように思えます。