金印「漢委奴国王」

福岡市美術館 

大濠公園付近には歴史と文化、自然を満喫できる場所が沢山あります。
福岡城に行った折に福岡市美術館にも立ち寄りました。

          


金印 「 漢委奴国王 」 が展示されていました。
通常は博物館に展示されているそうですが、空調設備の改修工事のため、美術館に一時移されての展示だそうです。

          

教科書の写真に載っていたものを実際に見る時はなぜか「特別な感激」を感じるのは私だけでしょうか。

印は一辺が2.347㎝の小さな印。(10円玉の直径とほぼ同じ、重さ108.729g )
材料は金:銀:銅の割合は95.1:4.5:0.5  
想像していたより小さい!長い年月を経てもピカピカに輝いていました。

金印は江戸時代(1784年4月12日)に博多湾に浮かぶ志賀島で発見されました。中国・後漢光武帝が西暦57年に倭国(日本)の国王に贈ったとされる印章です。日本と中国の交流の中で、年代の確定した最古のもので、中国の歴史書後漢書』にもその記述が登場します。

弥生時代にすでに大陸との盛んな交流が行われていたのですね。

何故(中国・後漢洪武帝が)印を送ったのかと言うと、異民族の王にも官位と印綬を与えることによって,皇帝を頂点とする秩序に組み入れようとした制度だったそうです。

発見された後、福岡藩主黒田家が所持していましたが、明治に入って黒田家が東京へ移った後は東京国立博物館に預けられていたそうです。1978年黒田家から福岡市に寄贈されました。

金印はつまみは鈕(ちゅう)と、文字を刻んだ印台から出来ています。
鈕の部分は「蛇が横向きに身をよじり頭を持ちあげて見返るように作られ前進しているような感じです。」と書いてありましたので、じっと観察したのですが、小さいので分かりづらかったです。
孔が空いている所は綬と呼ばれる紐を通すためのものです。
                    

上から見た蛇の目の部分
                                 

印面は漢委奴国王と言う5つの文字が篆書体で彫られています。

粘土版に捺して文字が浮かび上がるように、陰刻されています。陽刻ではありません。
          
         
さて、印はどのように使われていたのでしょうか
中国で紙が発明されたのは西暦105年。金印の時代の文書は木簡や竹を薄く削った竹簡でした。
文書を送る時には木簡などを入れた荷に紐をかけその結び目を板ではさみ、粘土で封をします。
その粘土に印を押し、途中で文書の封を開かれることを防ぎ、印を持った人が作った文書であることが証明されます。この粘土は封泥と呼ばれました。 
                                 

志賀島の田んぼの中からお百姓さんにより発見された金印。
鑑定を依頼された福岡藩校「甘棠館」の館長で儒学者の亀井南冥は、中国の史書後漢書・倭伝」に書かれた次の文献から建武中元二年(57)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす」金印が何であるのかを判断したそうです。

この方がいらっしゃらなければ、今に伝わらなかったかもしれませんね。

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福岡市美術館は、このような特別展示だけでなく,古美術展示室には*古美術企画展示室*松永記念館室*東光印仏教美術
近代美術展示室には日本画の他 国内外の有名な作家の作品も展示されていました。

尚、福岡市美術館での金印の展示は2012年4月1日迄です。