あさくらのロマンあふれる古代史ツアー (1日目)

「古代あさくらを駆け抜けた卑弥呼神功皇后斉明天皇 ゆかりの地を巡る歴史探訪モニターバスツアー」

1日目は神功皇后仲哀天皇の羽白熊鷲征伐、新羅を攻略するルート。
そして、卑弥呼の里の候補地―平塚川添遺跡の見学です。

バスには邪馬台国研究家の井上悦文氏が同行して説明をして下さいます。
またその他にこのツアーを企画した朝倉地域広域連携プロジェクト推進会議のスタッフ、および関係者の方も6人同行して下さっています。ツアーの参加者は30人です。それに現地では現地ボランティアの方が説明をして下さるので、至れり尽くせりの夢のようなツアーです。

参加者はおそらく「歴女」「歴男」が多いのでしょう。私はと言うと、恥ずかしながら歴史の事は(歴史だけではなく他の事もですが)まったくチンプンカンプン。おまけに福岡の土地勘もなく、地名も、山の名前も分からないと来ています。でも福岡に来てからこの土地に魅了され、少しでもこの土地の事を知りたいと思う気持ちが後押しして参加しました。

小さな知識の点が,線になり、面になって行く面白さ、その点集めが今回のツアーの目的です。

まずは神功皇后ゆかりの地から見学

神功皇后
日本書紀』などによれば、201年から269年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫より玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済朝貢を約したという(三韓征伐)。(Wikipediaより)

地元ボランティアの方々が案内をして下さいました。

砥上(とがみ)神社
神功皇后新羅を打たんとして諸国の軍集をこの地に召集し、中宿とした」ことから、中つ宿と言います。兵器を研ぎ磨かせたことから砥上の地名となりました。
                                      

とても開放的な拝殿です。    沢山の絵馬が掛けてありました。
            

境内の裏手に回って見ると、2本の木に注連縄がかけてありました。その奥に砥上山の山頂にある「武宮」の遥拝所の石碑があります。ボランティアの方に伺うと、ここでお参りをすることで砥上山の山頂でお参りしたことになるとのことでした。
砥上山の山上の武宮(たけみや)とは、征討進発に当たり、軍議を催し、武神なる武甕槌神(たけみかづち)を勧請して皇軍の武運を祈り、三韓平定が成功するように奏上されたと伝えられています。
          
                     御神木のイチイカ
          

栗田八幡宮(松峡八幡宮
祭神は神功皇后八幡大神住吉大神
羽白熊鷲との戦いの為に香椎宮を出発した神功皇后は途中三笠群を通り、まつお(筑前町栗田)で休息をされます。「松峡宮」を建て、勝利した皇后が、「(熊鷲を撃って)。わが心安し」と言ったことから、この地域を夜須と呼ぶようになったそうです。
          
神功皇后は神社の裏手の山に登りそこで地形を見渡して羽白熊鷲との戦いの作戦を立てたところから、山の名前を目配山(めくばりやま)というようになったそうです。
頂上には神功皇后の腰掛石が残っているそうです。


樹齢1000年の大楠  根回り約12m、高さ約30mの大木。昔から 知られた古木だそうで、貝原益軒の『筑前国 続風土記』にも記述があるほど。今は元気がないクスノキですが、貝原益軒が見たときはどんなにか青々と茂っていたのでしょう。
          


【羽白熊鷲(はじろくまわし)】
日本書紀巻九の伝えるところによれば、仲哀天皇神功皇后熊襲征伐のため九州に赴いた。皇后は神の神託を求め、それに従って行動した様が記紀に記録されており、「小山田邑(おやまだむら)に斎宮(いつきのみや)を作らせ、自ら神主となって神託を聞く。神の教えに従って神々を祀り、吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を使わして熊襲を滅ぼし、服従させた。また荷持田村(のとりたのふれ)を根城にして暴れ廻る、「羽白熊鷲」(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞かず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を差し向けこれを討つ。
皇后は軍勢を率いて御笠川沿いに南下し、砥上岳(朝倉郡夜須町)の南麓に中宿 (本陣)を置いた。以来、この地は中津屋と呼ばれ、本陣跡は中津屋神社として残っている。その後、松峡宮(まつおのみや)[朝倉郡三輪町栗田―栗田八幡宮] まで進み、今日、目配山(めくばりや
ま)と言われる山で物見をして作戦を立てたと言われる。筑後川の北側1キロの平野部に、巻貝の河貝子(カワニナ)を集めて城を築き(それでこの附近を蜷城(ひなしろ)という:甘木市蜷城)、熊鷲の目を引き付けておいて、秋月〜下渕の后の森、宮園の森、開屋の森、三府の森、会所の森、宮岡の森、梅園の森の七ヶ所に陣屋を設け、進攻した。しばしば戦闘を繰返しながら、鬼ヶ城山へ追い詰めて行っている。神功皇后の軍勢は、佐田川中流の山間部で矢箟(矢の幹)の材料となる篠竹を刈り取り(それでこの附近を矢ノ竹(やんたけ)という:甘木市矢野竹)、熊鷲の一味を殲滅している。熊鷲は山沿いに北方に逃げ、古処山(コショサン)の北東6キロにある益富山で討伐された(大熊山)。神懸かりした皇后軍の前に、さしもの熊鷲も屈伏した。皇后は、古処山南麓へ戻り、「熊鷲を討ち取ったので即ち我が心安し」と周りに告げ、ここを安(やす:夜須)と名づけた。

大己貴(おおなむち)神社  この神社は4日前に来たばかりの神社です。今回神功皇后の足跡をたどり説明を受けながらここに着くと、前より生き生きと歴史の息吹を感じます。

          
大己貴神社は旧秋月街道沿いにあります。この道は昔は参勤交代の大名行列も通ったという歴史のある道です。この神社は古書には大神(おおみわ)神社とも記載されており、入口の鳥居には「大神大明神」と刻んであります。わが国で最も古い神社の一つとして言い伝えられている神社です。この大神の名前が旧・三輪(みわ)町の名前の由来となったと言われており、地元では「おんがさま」と呼ばれて崇敬されています。
祭神は大国主之命(天照大神とも大己貴命ともいう)で日本の国造りをされた神です。創建は言い伝えによると、神功皇后新羅征伐に際して、兵が集まらなかったため、大三輪社を建てたところ集まったという、などなど諸説があります。実際720年に出来た「日本書紀」には神功皇后の事跡に関連のあるお社と記されています。
78代目の高 清史宮司のご案内で見学をしました。(またまたお世話になりました。)

前回お世話になった古閑めぐみさんにもお目にかかれました。役場の方、地元ボランティアの方々地域の良い所を発信していこうとするパワーと細やかな心使い、おそらくそう言うところも、私がこの土地に魅了される要因なのでしょうね。   

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平塚川添遺跡公園
平塚川添遺跡は,約2000年前から約300年間、弥生時代中期から後期にかけて栄えた集落遺跡です。台地の下で川に近い低地にあり、水の入った多重の環濠に囲まれているのが特徴です。
最盛期は紀元3世紀ごろと推定され、ムラからクニが出来る頃、中国史書に言う「邪馬台国
の時代のほぼ全体が地下に保存されています。当時の集落の様子を良く残していることから集落の主要部分約11ヘクタールが国の史跡に指定されています。
集落の最盛期がわかるように、集落の中心部分と水を入れた環濠を主に復元しています。

公園には社会教育指導員がいらして、遺跡について色々とお話を聞かせて下さいます。

          
ここの遺跡で興味深い事は発掘調査の結果に基づいて古代の森の復元が行われていることです。
次第に古代の森が蘇ってきているようですので、何年か後楽しみですね。
クワの木も植えられていて、実がなっていました。クワの実は初めて見ました。スタッフの方が採って下さいました。甘酸っぱい味です。当時の人も食べていたのでしょうね。
                 

ここに、200棟余りの竪穴住居が存在していたそうです。
竪穴住居は弥生時代のもっとも一般的な家の形です。地面を下に掘り下げた平面を床にして、その上に屋根をかぶせます。
          

穀物倉庫や祭殿は風通しの良い高床式となっています。
           

首長クラスの「会議棟」らしき大型建物は平地式となっています。  
          
首長館(会議棟の中)
          
卑弥呼の里にも擬せられているこの遺跡、しばしの間当時のことを想像しながらこの遺跡を歩きました。邪馬台国が甘木朝倉地方に存在していたかもしれないと考えるとわくわくしますね。

出発した時からバスの中では ずっと井上悦文先生が歴史の流れを詳しく説明をして下さり、また現地ではボランティアの方の説明が受けられましたので、興味深く、楽しく見学することが
出来ました。

1日目の見学はここまでで、これから宿泊するホテル、[原鶴温泉 ビューホテル平成]で邪馬台国研究家 井上悦文氏の歴史談義があります。

なんと、この歴史談義、歴史を決定的にさせるようなお話だったのです。

出発前に心配したオプションの時間の件。朝倉地域広域連携プロジェクト推進会議のスタッフの方たちはオプションの鵜飼いの時間も考慮して計画を立てて下さっていました。

旅の行程 ルートマップ