邪馬台国は朝倉にあった!

「古代あさくらを駆け抜けた卑弥呼神功皇后斉明天皇 ゆかりの地を巡る歴史探訪モニターバスツアー」 1日目の夜は邪馬台国についての講演がありました。

日本古代史上で未だ解明できていない最大のテーマ「邪馬台国はどこにあったのかを」を解き明かしていく、歴史を決定的にさせるようなお話だったのです。

邪馬台国の所在地を巡る論争の焦点は 地名、倭人伝が記す方位と距離(移動に要する日数)ですが、その疑問を見事に解き明かしていくものでした。

今回講演をして下さった邪馬台国研究家の井上悦文氏は福岡県甘木市(現朝倉市)のお生まれ。
書道家としてご活躍されています。

邪馬台国は朝倉にあった!」
井上氏の講演は初めから驚くものでした。
魏志倭人伝の原本は草書体で書かれていた」
と言うのです。

今まで私は間違った漢字の書体の変遷を認識をしていました。
篆隷楷行草の順で書体が誕生したと思っていたのです。ところがそうではなく漢字の書体の変遷は、篆書、隷書、草書、行書、楷書という順序でそれぞれの発生が認められているのです。

井上氏は漢字の書体の変遷と当時の歴史的背景、三国史を撰述された陳寿のこと、完成までに、わずか3年余りと言うことを説明。
          

そして、歴史的背景だけでなく、実際に短期間にかかれた三国志の文字数から、短期間に書くために費やす時間を実際に文字を書かれ、草書がいかに早く書けるかを実証して下さいました。草書でなければこれだけの文字を書くのは不可能に近い事が裏付けされます。書道家でなければ、このようなことはなかなか思いつかないのではないでしょうか。

興味深いお話は,「非草書」の記述です。草書の起こったのは近古(秦末)の事だと思われる、当時は秦の刑罰が厳しく法律が緻密になり、官の文書が頻雑で、戦争が相次いで起こり戦の文書が行きかったと言うのです。鳥の羽をつけた至急ふれぶみが乱れ飛ぶような為、隷書の草書を作り急ぎの文字を書くのに使ったそうです。

魏志倭人伝陳寿の没後に著書が筆写されたものなのです。 

現存する写本が楷書体で書かれているため、「原文も楷書体で書かれていると思われがちですが、そうではなく草書で書かれていたと説明されます。
       
三国志の中の間違いの文字は、漢文の部分にはあまり存在せず、国名や、人物などの固有名詞部分、つまりは「借字」部分に多く存在します。

書道家でなくては解りにくい、草書にくずした時に似ているが為の文字の間違え。
類似する文字を実際ボードに書いて説明して下さいました。草書にするとまったく同じように見える文字があるのです。

しかも当時陳氏が書いた紙質は今とは異なる事。又それ以前竹などに書かれたものは、竹に油分が多い為,筆順がわかりにくくなることを説明されました。実際に行った事のない地名など、筆写する人が、草書のくずしも筆順から元の字を推測できない場合など、似ている字と間違えることがあるかもしれません。

この様なことは机上の空論ではなく、実際多くの文字を書かれている書家だからこそ。
何かを推測する時に、経験により推測の発端がひらめくのだと感じました。

井上氏は魏志倭人伝に登場する国名を草書体で読み、(字の間違いは、草書体のくずしが酷似している文字と置き換えて)その国名の中国古音(古音・上古音・中古音)の発音と倭名類聚抄記載の郡郷名がほぼ一致することを証明し「女王卑弥呼が制した21国の場所」を明らかにします。

*都支国は越支国(オキ国)の間違いで、肥前国小城郡。*姐奴国は妲奴国(タノ国)の間違いで、筑前国竹野郡。*躬臣国は躬須国(クス国)の間違いで、豊後国玖珠郡。*對海国は對馬国(ツイマ国)で対馬。*一大国は一支国(イキ国)で、壱岐のこと。

また、同じく、投馬国は殺馬国(サツマ国)の間違いで、薩摩国であることを明らかにしていきま
す。

私も説明を伺いながら実際に草書体で書いてみましたが、投と殺は殆ど同じ字になってしまいます。
        
実際に草書に書いていただくと疑問が面白い程解明されていきます。

この文字は解りやすいように草書にすると似るという例としてあげて下さいました。実際草書はもっとくずし、両方の文字が同じに見えます。

                

論争のもとになる魏志倭人伝の里程と日程の疑問も、井上氏は随書や大唐六典に書かれていることを研究し、次から次へと解き明かしていかれます。随書には倭人は里数を知らず、ただ日を以て計ると書いてあるのです。ですので、里数は、今の感覚で考えてはいけないと説明されました。
                    
頂いた資料には旅程からの考察(水行里程)投(殺)馬国と邪馬台国への里程の考察など、地図で示され驚くほど一致しているのです。(本当はその地図を載せればわかりやすく納得いく説明になるのですが・・・)
      
下記に魏志倭人伝(全文)をのせ、井上氏が話された当時の道の様子を(緑字)にしてみましたが、本当に当時の道は歩きにくそうです。 現在の道を歩く感覚ではなく、1日に数キロしか進めないこともある当時の人の状況で推測しないといけないと井上氏はおっしゃいます。

邪馬台国のキーワードとして
*21国の範囲内であること、不彌国(フミ国)である現在の粕屋郡宇美町から600里の
 不彌国に隣接の場所であることから水行10日、陸位1月の場所である事。「ヤマダ」・「ヤマダィ」  の発音が残る土地であること。
それに加え
*朝倉の広大さ
*朝倉の名の由来から
斉明天皇の朝倉遷都から
卑弥呼の存在から(アマテラス)との関係。 

これら一つ一つを丁寧に解説してくださいました。

多くの古い書物を読まれ研究、検証した結果、全ての条件を満たし達したのが、
邪馬台国は朝倉にあった!」と言う結論です。
結論に至るまでの説明を吸い込まれるように伺いました。

「朝倉は、日本書紀にも記載される斎明天皇百済救済のために唐と新羅の連合軍と戦うにあたり、皇居を移した場所でもあり、また、斎明天皇崩御した場所でもあります。
このように、魏志倭人伝を草書体で読むことにより、これまで謎とされていた魏志倭人伝の国名の場所が比定される」と井上氏は話され講演は熱気に包まれ終わりました。


下記が魏志倭人です。この1985文字の中に古代史のロマンがつまっています。
今回のツアーは邪馬台国を廻っていた!井上先生のお話を伺い今はそう確信しています。

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                 魏志倭人伝(全文)
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。
南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
東南のかた奴國に至ること百里官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。

その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲にはヘン豆を用い、手もて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。

その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。その木にはダン杼・豫樟・ホウ・櫪・投・僵・烏号・楓香あり。その竹には篠・カン・桃支。薑・橘・椒・ジョウ荷あるも、以て滋味となすを知らず。ジ猿・黒雉あり。

その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
 
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。

その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。

更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

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もしかしたら、今回のツアー、日本古代史最大の謎、邪馬台国を解き明かした井上悦文氏に同行して頂き、邪馬台国を廻った凄いツアーだったと振り返る時が来るかもしれません。
今はそう思っております。

これを機に色々な説をもう一度読んで見ようと思っています。