あさくらのロマンあふれる古代史ツアー(2日目)

昨夜の講演を伺った後、1日目とは少々違って見える朝倉の風景。
2日目は斉明天皇ゆかりの地を主にまわります。

4世紀末、朝鮮半島百済高句麗新羅の三国に分割されます。7世紀に至ると、660年7月百済はついに新羅、唐連合軍に滅ぼされ、友好関係のあった日本へ使者を遣わし救済の要請をします。斉明天皇はこれを受け入れ、救済軍を派遣することを決定します。 斉明天皇百済救援の為に、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)ら文武百官を従えて共に難波の港から海路筑紫に向かい、翌661年1月四国の石湯行宮に到着し、3月に博多に至り、5月9日朝倉橘広庭宮に遷られます。しかし天皇は滞在75日、7月24日御年68歳で病のためにこの地で崩御されました。

恵蘇八幡宮
斉明天皇百済救済の為に橘広庭宮に皇居を遷された折、中大兄皇子(のちの天智天皇)に命じ国の発展と、皇軍の勝利を祈願するため、宇佐神宮の御祭神応神天皇をまつったとの記述が日本書紀にあります。673年斉明・天智天皇の二神霊を合わせてまつるようにとの勅命により恵蘇八幡宮となりました。

          
木の丸殿
朝倉橘広庭宮で崩御された斉明天皇の亡骸を仮安置したのが恵蘇八幡宮の上の山頂に残る御陵です。この時に斎宮として中大兄皇子が造らせたのが、木の丸殿で、この名前は、旧の造営のために木を丸太のままで作ったことに因むと言われています。ここで、1日を1ヵ月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれています。
天智天皇斉明天皇の喪に服された「木の丸殿」は現社殿付近に営まれたといいます。)          

           
 
御陵
皇太子中大兄皇子は、斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地に移し、その夕御陵山に仮に葬られました。

神社の右のもう一つ鳥居を上って行くと御陵がありました。この中に古墳が二基あるそうです。  
          
          

漏刻(水時計
恵蘇八幡宮の山は木の丸殿公園になっています。そこに大きな水時計がありました。
          
天智天皇は漏刻(ろうこくー水時計)をつくって人々に時を知らせられたと伝わっています。この漏刻は、4個の桶を段違いにならべたもので、第一番目を夜天地、第2を日天地、第3を平壺、第4を万水壺といい、万水壺の中には矢が立てられています。第1のつぼに水を注ぐと、水は管を通って順番に一番下のつぼである万水壺へと流れ込み、万水壺に水が溜まるにつれて、矢が浮き上がるようになり、矢に記された目盛りを読み取る事で時刻を知る仕組みとなっています。 

          
木の丸公園からは筑後川が見えました。下に降りて山田堰を見てみましょう。
          

山田堰
筑後川中流域に位置する朝倉町(現朝倉市)は、現在では肥沃な水田地帯ですが、かつては谷間から湧き出る小川等の水を利用したわずかな水田があるだけで、湿地や原野、凹凸や傾斜の激しい石ころまじりの砂地が広がる地域でした。1663年、筑後川から水を引くため堀川用水が作られ150ha余りの原野が水田に変わりました。年を経るに従い取水口に土砂が堆積し干ばつ被害を受けるようになり、1722年取水口の変更工事を皮切りに改良を繰り返し、1790年、堀川の恩人と呼ばれる古賀百工により筑後川を斜めに堰き止める、日本で唯一の石張堰である山田堰が誕生しました。現在では652haの水田を潤しています。
                             
 
川の中に丸太を打ち込み、大きな石を水中に投げ入れて組み合わせた造りだそうです。

この日は水は少なかったのですが、堰は川の水量によって景色を変え水量が多い時もとても美しいとボランティアの方が説明して下さいました。
          
 
川の真ん中にとても長い、斜めの石畳があります。それが堰の役目を果たして
土砂がたまらないように水を朝倉の大地に運ぶ仕組みが作られているそうです。

平成10年、それまでの空石積(セメントと使わず石だけで組上げる江戸時代からの工法)から、練石積(セメント利用)に変わったそうです。少々残念ですね。

アフガニスタンで難民支援に取り組む福岡県出身の中村医師は、アフガニスタンでの用水路建設を山田堰の工法を参考にし、東部アフガン・ガンベリ砂漠において、2003.3月〜2010.2月まで7年間に及ぶ工事で全長25,5㎞、灌漑面積3,000haの農地が開発され農民15万人が生活するまでに復興されました。 

月見石
この場所から山田堰の説明をして頂きました。敷地内には月見石も。

          
中大兄皇子は、母君の死を悲しみをこの「月見の石」にかけ名月を鑑賞され心の痛みを癒された、と伝え られています。
          

菱野の三連水車
朝倉市は純農村地帯で、筑後川が流れ、耳納連山が見えるとても風光明媚な所です。筑後川の北部の広い水田に水を導くために筑後川を斜めにせき止めた「傾斜堰床式石張堰」があり、筑後川の水を堀川に導流させています。
菱野三連水車の直径は上車が 4.76m、中車4.3m、下車 3.98mで標高差のある上の田に揚水しています。

堀川は、農業用水路で本線約12Kmに及び朝倉の水田の約半分が恩恵を受けていると言われています。この堀川には水車群があり堀川の水を高い位置にある水田に揚水しています。筑後川の流れを受けた堀川にかかる水車はこの3連水車のほかに、三島・久重にも実働する2連水車が2基あります。

田んぼに水を入れる時期は6月中旬から10月中旬ごろまでなので、この日は水車はまわっていませんでした。

               菱野の三連水車は 寛政元年(1789)に造られました。 
          

水車を維持するのは大変です。5年に一度作りなおしているそうですがこの水車の水を必要としない農家も資金を出して維持しているそうです。
          

農家レストラン『楓』で昼食
お花が一杯の人気のある小さなレストランです。     近くに防空壕がありました。
     

再び斉明天皇ゆかりの地めぐり

橘広庭宮
百済救援のためにやってきた斉明天皇はこの地に本宮を置いたと伝えられています。ここはさながら大和朝廷のようだったのではないかと、当時の情景を思いめぐらせながらの見学。

天子の森
斉明天皇が朝倉に作った橘広庭宮の一角にあったとされ、天皇の政務をつかさどる場所と言うことからこの名が付けられたと伝えられています。説明を受けないとその面影はないのですが、古くから地元の人に守られてきた場所とのこと。
          

猿沢の池
橘広庭宮の碑が建っている小高い場所に上る入り口付近に小さな池がありました。この池は、昔から常に満々と水をたたえて今まで枯れたことがないそうです。干ばつの時にはこの池で雨乞いがなされ池の水を汲むと大雨が降ると言われていました。昔は、池底がとても深く、釣鐘が埋められているという伝説があり、廃寺となった長安寺と関係 があるのではないかと考えられています。 
          

朝闇神社
別名を大行事社ともいいます。「朝倉」の地名はこの神社から来たものではないかとも考えられています。寺跡からは基礎となる木組や敷石・礎石のほか、特に祝部土器の破片には、「大寺」「朝」などしるしの入った証拠の遺物が数多く発掘されています。
                 

橘広庭宮の碑
斉明天皇百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」に滞在したあと 5月には「朝倉橘広庭宮」に移ります。ここはその場所と言われています。7月には突然崩御します。朝倉橘広庭宮に都が置かれたのはわずか2か月余りということになります。 原因は臣下も数人亡くなっていることから疫病のためではないかとの説があります。

貝原益軒の「筑前国風土記」に「朝倉橘広庭宮」は朝倉市須川にあったと書かれています。 
          
         
碑の近くにはタチバナの木がありました。(タチバナを見るのは初めてです。)
          



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今回の素晴らしいコースを企画をして下さったのは「朝倉地域広域連携プロジェクト推進会議」です。
沢山の貴重な資料を用意して下さり、車窓から見える朝倉の景色を歴史をふまえずっと説明して頂きながらの今回のツアー。現地のボランティアの方々の熱い説明も心に残ります。

井上悦文先生の「邪馬台国は朝倉にあった!」は目からうろこ。2日目は「邪馬台国」を歩いていると言う感覚でまわりました。

宿泊したホテル、「原鶴温泉 ビューホテル平成」は 眺めも、お食事も、温泉も、スタッフの方々の対応も評判通りのホテルでした。またゆっくりと宿泊したいホテルです。

たった1泊だけの旅行でしたのに、タイムマシンに乗り長い旅をしたような感覚です。

これだけの企画を実現するのには大変な準備をされたことと思います。

お世話になった多くのスタッフの方々に感謝します。