福江島

昨日福江島に行ってまいりました。

五島・福江島 魚津ヶ崎公園コスモスウォーキング

博多駅(8:30)---基山PA---長崎港〜〜〜ジェットフォイル〜〜〜福江港---水ノ浦教会(車窓見学)----高浜ビーチ (車窓見学)---遣唐使ふるさと館(ご昼食)--魚津ヶ崎公園(約160万本のコスモスの中、約3kmのウォーキング)---福江港〜〜〜フェリー〜〜〜長崎港---基山PA---博多駅(22:00頃)

長崎港から福江島までの乗船時間はジェットフォイルで1時間25分。
         (片道だけでも6630円。でも、このツアー代金は9800円。ツアーってお得なのです。)

             

          

お天気に恵まれ風もない鏡のような五島灘ジェットフォイルは進みます。
良漁場として知られる五島灘を横断、五島列島で最大の島「福江島」に到着です。
          

福江港に到着してすぐに、観光バスに乗車。

五島列島は、「古事記」中の神話 日本の国土創世「国産み」において、イザナギイザナミにより作られた島として登場します。旧石器時代から人が住み着いていたと言われていて、縄文時代弥生時代の遺跡が見られます。平安時代には遣唐使が唐に向かう途上、最後に寄港する場所として、文化の交流地点として栄えていました。
海外との交流拠点であった事もあり、戦国時代のキリスト教宣教師による布教後は、江戸時代のキリスト教禁教と迫害を耐え忍んだ「隠れキリシタン」の歴史があります。明治政府により信仰が認められると教会がたくさん建築され、観光名所となっています。

武家屋敷通り(車窓から)
お昼も1時半ばを過ぎていた為に食事会場に急いで向かうバスからはゆっくりとは見ることが出来ませんでしたが、武家屋敷通りを通りました。車窓から(窓側ではなかったので上手く撮れませんでしたが)情緒あふれる町並みです。

寛永11年(1634)に五島藩士170余家をここに移り住ませたのが始まりです。
中級武士が住み、石垣の全長は約300M。両側に張り巡らせた石垣の上部には、こぶし大の丸石が、かまぼこ状に積み上げられています。この石は「こぼれ石」と呼ばれ、敵の侵入を防ぐとともに、つぶてとしても使われたそうです。

          
水ノ浦教会(車窓見学)
水ノ浦教会は木造教会堂としては最大規模である白亜の天主堂です。明治13年(1880)パリ外国宣教会ザルモン師によって創建され、その後現在の天主堂が昭和13年(1938)に完成されました。
この美しい水ノ浦で明治初期、厳しいキリシタン迫害があり、民家を改造した牢屋に大勢の信者が押し込められ、厳しく改宗を迫られたそうです。

水ノ浦教会の歴史
江戸時代末期、岐宿地区では大村藩領から移住した潜伏キリシタン達が楠原、水ノ浦、打折、姫島などに別れて住みました。水ノ浦教会の歴史はそのうちの5人の男性とその妻子の移住に始まります。彼らは仏教徒を装いながら密かにキリスト教を信仰する日々でした。慶応2(1866)年の頃上五島の信者が水ノ浦に来て、長崎の大浦にキリシタンの教会が建っていることを告げました。同年11月8日水ノ浦の帳方等3人が長崎に行き、プチジャン司教(1866年秋・司教叙階)に面接し、司教から“十字架のしるし”をするよう言われましたが3人とも“十字架のしるし”の知識がありませんでした。3人はその場で司教から丁寧に教えてもらい、メダイや十字架を貰い受けて帰島しました。 その年の12月25日、水ノ浦のキリシタン達が帳方の家に集まって祈っているところを役人に踏み込まれ、4〜5日後30余名の男性が捕えられ、急ぎ牢にしつらえた同帳方宅につながれました。まもなく姫島の信徒もこの牢に入れられました。 また楠原でも同じく帳方宅を牢屋に充て、33名がつながれました。大半の信徒は明治2年に出牢を許されましたが、主だった8名は更に2年余を牢内にとめおかれました。  水ノ浦の信徒たちは、禁教の高札撤去から7年後の明治13(1880)年に水の浦湾を一望する小高い丘の上に最初の教会を建立しました。五島内では、いち早く建てられた教会のひとつで、当時は木造の純日本的な教会でした。

車窓から見る水ノ浦教会は台風の影響を受けたため修復中でした。
          
本来の美しい姿に早く戻ると良いですね。
          

高浜ビーチ
日本の渚100選日本の水浴場88選に、選ばれている高浜海水浴場です。
                   海の色の綺麗なこと
          

遣唐使ふるさと館
          
道の駅遣唐使ふるさと館は、長崎県初の離島の「道の駅」です。個性的な外観の遣唐使ふるさと館で お昼のランチビュッフェを頂きました。2時近かったので、30種類近くのお料理は少なくなっておりましたが、大忙しで何回も補充をして下さいました。名物五島うどんも頂きました。
    
遣唐使ふるさと館の入口左側には、電気自動車レンタカーの急速充電施設も整備されています。  
          
プラグインハイブリッド車を普及させるため、特定地域に絞って行われるモデル事業があるそうですがこれが五島列島で行われているそうです。
電気自動車を実用化するには、「電気スタンド」が必要なため福江島には多くの電気スタンドがあるそうです。

今回のツアーの最大の目的 魚津ヶ崎公園(約160万本のコスモスの中、約3kmのウォーキング)

美しいコスモスの中を・・・・・・
          

と言いたいところなのですが・・・3日前の台風・・・潮風をもろに受けた影響で可哀想な姿に

添乗員さん謝る事、謝る事……でも、花追いの旅ってこのようなことはよくある事。

だからこそ美しい花の見頃にあたると嬉しいのです。 
それに私大きな声では言えませんが16日に展海峰でコスモスをみているのです。・・・

本当はこの日が一番の見頃だったようです。

海の近くのコスモス畑それなりに素晴らしかったし、展海峰では聞こえなかった虫の声が秋を奏でていて良かったですよ。
          

コスモス畑をそこそこに海側を散策しました。

魚津ヶ崎公園(ぎょうがさき)は遣唐使船が風待ちしたと言われる川原の浦(白石湾)の湾口にあります。

遣唐使のこと。
聖徳太子の始めた遣隋・遣唐使は中国文化の摂取習得が主なねらいで、随行した留学僧や留学生は帰国後、大化改新推進や仏教文化開花の原動力となりました。
遣唐船の航路は、北路・南島路・南路の三つで、五島(値嘉)が正規の航路に組まれたのは南路になってからですが、それ以前にも何回となく、五島寄港の記録があります。唐が日本の西にあり、五島日本の西の果てである以上、唐往来の船が五島に関与するのは当然のことです。
その五島の最も西にある福江島(遠値嘉)北西に位置し特に寄泊が多かった川原浦は、蛇行三キロにも及ぶ深い入り江を待ち、周囲を山で囲まれた天然の良港です。湾口は東シナ海ですが、魚津ヶ崎の岬が細長く入り口を狭めるように突き出て居るため、大海からの風波を防いでいます。

遣唐使船は、長いものは数か月も風待ち、日和待ちを続けて天候を見定め 水や食料を積み込んで出港したといわれています。しかし四隻のうち、三隻は遭難したそうです。命がけの船出を、村人は必ず、魚津ヶ崎に集まり、手を振り、声を振り絞って別れを惜しんでいたそうです。
          

小島が点在する光景は美しい! 遠くには三井楽半島と伝説の島・姫島が横たわっているらしい・・・確認できませんでした。
          

          
遣唐使船寄泊地の記念碑
          

空海最澄もここから大陸へ向かって船出したため、福江島には多くの空海伝説が残っているそうです。多くの歴史に思いを馳せ海を眺めました。
***************************************

そして、帰りはフェリーで3時間25分かけて長崎港に戻ります。

バスの中、フェリーの中の長い時間もツアーでは楽しみの一つです。
今回一人参加の方も多かったのですが、バスの中でお隣に座られた方と一日中ご一緒しました。
旅の事、その他の趣味の事、話は尽きません。

歯科衛生士の資格を生かし週一度、訪問介護で歯科医療を受けている方の所を廻るお仕事をしていらっしゃる活動的な魅力ある女性。歯の事、趣味の登山こと、私の知らない世界を沢山伺えました。

そして、ボランティアで山の環境保全にも携わっているそうです。
要らない木を利用して作った手作りの作品を頂きました。

ウッドバーニング
電熱ペンを使って木を焦がし、絵や模様を描く技法です。図案を木に転写して、それを電熱ペンでなぞって描くそうです。

               素敵でしょ。福江島の想い出と共に大切にします。
          
***************************************

古くは遣唐使が大海へと船出をし、中世には倭寇の根拠地として、近世にはキリシタンの島として、また黒船の備えとして数々の歴史的遺産が残されている福江島、駆け足の旅でしたが沢山の想い出が出来ました。

                             第一観光 旅行代金 9800円