次大夫堀公園民家園の雛飾り

自宅から歩いて15分の所にある次大夫堀公園民家園に雛飾りを見に行きました。

        

次大夫堀とは六郷用水の別名。慶長14年(1597)から14年の歳月をかけて、武蔵国世田谷領、六郷領に農業用水を供給する目的で開削された六郷用水。その工事責任者が小泉次大夫でした。次大夫堀公園には、約650mの水路が復元されています。園内には水田や民家園があり、かつての農村風景をしのばせてくれます。

「生きている古民家」をテーマに、囲炉裏には毎日火がたかれ、家の中や軒下には民具が置かれています。主屋内にも自由に入ることができ、民具などに触れることもできます。また、農村に伝わる行事等も行っており、昔ながらの生活や風習を体験することができます。

自宅近くにこの様な場所があるのは幸せなことです。

民家園には世田谷区内の人をはじめとした多くの人々によって寄贈された雛人形が収蔵されて
います。今年はそれらの中から、江戸時代から大正時代の作と思われる雛人形が旧城田家と
旧安藤家に飾られていました。

旧城田家  
この建物は江戸時代後期に建てられた店づくりの農家です。もともとは喜多見地区を通る筏道と登戸道の交差点にあったものです。筏師などを相手に農業のかたわら酒屋を営んでいたそうです。  
その造りを活かして売店になっています。
        

        

旧安藤家
この建物は江戸時代後期に建てられた名主屋ですが、当時の姿が不明な事から、明治期の姿に復元しています。安藤家は天保年間から明治4年(1871年)まで旧大蔵村の名主を勤めていました。式台をはじめ、名主の役宅を兼ね備えた間取りは、内倉の付く八間取り形式です。
        

旧安藤家には二か所に雛人形が飾られていました。一つは大正時代の物。もう一つは衣装に鳳凰の刺繍が施されている「古今雛(こきんびな)」や、長めの頭にやや細くつり上がった目が特徴の「享保風田舎雛」など、普段はなかなか見ることの出来ない御雛様です。

        

        
ひな祭りの歴史などについての解説会も開催されました。
三月節句はどのように始まったのか、どんなお人形を飾っていたのか等、平安時代から今日に至るまでの歴史を分かりやすく説明して頂きました

今ではあまり目にする事のない、雛人形を見ることが出来ました。
その中の一部を御紹介します。

        

左から
浦島太郎(江戸後期)何故雛人形に浦島太郎が?
浦島太郎は長生きをした三人の人物の中のひとりと言われています。
長生きした人にあやかって健康と長寿を願い飾ったそうです。
三長命は  浦島太郎 ・老武士 ・三浦大介です。
今では雛壇に浦島太郎を飾ることはなくなってしまいましたね。
 
享保風田舎雛(江戸後期)     写真 前列内裏雛
信州の松本付近で作られた雛人形で、別名松本田舎雛と呼ばれています。
享保風と呼ばれる理由は、江戸時代中期の享保年間(1716年〜1736年)ごろに流行した座り内裏雛享保雛」の面影を残していることからその名がつけられています。江戸時代の町家で流行した享保雛はその衣装に金襴や錦を使った豪華な物で、顔は面長で細長く、吊り上がり気味の目をしています。一種能面のような印象を受けます。男雛は両手をぴんと張っており、手には
笏を持ち五つ衣の裾や膝の部分に当たる赤い袴に綿を沢山入れてふくらみを持たせているのが特徴です。

松本押絵雛(江戸後期)
江戸時代後期から明治時代にかけて信州の松本で盛んに作られたものです。
松本はかつての城下町であり、そこに住む士族の女性の手内職として発展しました。かつてこの地方で雛と言えばこの押絵雛をさすように、節句には欠かせないものでした。高価な座り姿の衣装雛に比べ手に入れやすい押絵雛は行商人によって各地へと売りさばかれたようです。このような押絵雛は他の城下町を中心に全国各地で作られていましたが、松本の物は流れるような優美な曲線とすぐれた動きに特徴があり、其の美しさから人々に愛されていました。

鴻巣雛 (江戸後期) 写真前列右
江戸時代後期の文化文政年間(1804〜1818)から嘉永年間(1848〜1854)に埼玉県鴻巣周辺で
作られたもの。一人立ちの人形に厚紙製の波や桜の木、人物などを前後に配したもので、素朴な郷土雛風情が感じられます。明治以降は製作されていない貴重な雛人形です。


雛祭りはいくつになっても嬉しいものです。心華やぐ1日でした。