広島平和記念日に思うこと

原爆記念日
68年前の今日8月6日は広島に原爆が落とされた日です。

          

昭和20年、第二次世界対戦の末期にアメリカによって広島:8月6日そして 長崎:8月9日と日本に二つの
原子爆弾(原爆)が落とされました。二つの原子爆弾(原爆)の事を忘れないよう原爆記念日が制定されました。

広島平和記念日の今日は原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典の様子が
朝から報道されました。

今は聴くことも少なくなりましたが、私が小学生の時には、この時期必ず「原爆の歌」を歌っていました。
時が経つにつれ、この歌のこともあまり思いださなくなりました。

あの2011年3月11日の地震の後の 福島第一原子力発電所の事故が起きるまでは・・・・

福島第一原発の事故により、自宅に住めなくなり、仕事も何もかも失ってしまった人々の事を考えると、「原爆のうた」は原爆を原発に替えるだけで、この歌の4番の歌詞そのものだし、現在も汚染水が流出し続けていることを考えると、2番の歌詞もあてはまります。

日本は唯一の被爆国で放射能の恐ろしさを体験しているのにもかかわらず福島第一原発に国がまともに対処しておらず、今のままでは日本だけでなく世界の海を汚し加害国になりつつあります。

そして昨日今だに日本は敗戦国扱いでしかない事を実感する出来事が起きました。

アメリカ軍のヘリコプター1機が、沖縄本島北部にあるアメリカ軍のキャンプハンセンの敷地内に墜落しました。在沖米軍は、キャンプ・ハンセンにおける都市型戦闘訓練施設の建設強行に見られるように、日米地位協定第三条を盾に、米国政府の予算で建設するものであることから日本政府に通報する必要もない、とばかりに傲慢な態度に終始しています。

日米地位協定第三条を根拠に基地機能の強化を進める米軍の態度は不愉快でもあり、他方米軍の態度を容認し、傍観者的態度の日本政府にも怒りを感じます。

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                               原爆のうた

          1 ふるさとの街焼かれ
            身よりの骨埋めし焼土に
            今は白い花咲く
            ああ許すまじ原爆を
            三度(みたび)許すまじ原爆を
            われらの街に
                                        2 ふるさとの海荒れて
                                          黒き雨喜びの日はなく
                                          今は舟に人もなし
                                          ああ許すまじ原爆を
                                          三度許すまじ原爆を
                                          われらの海に

          3 ふるさとの空重く
            黒き雲今日も大地おおい
            今は空に陽もささず
            ああ許すまじ原爆を
            三度許すまじ原爆を
            われらの空に
                                        4 はらからの絶え間なき
                                          労働に築きあぐ富と幸
                                          今はすべてついえ去らん
                                          ああ許すまじ原爆を
                                          三度許すまじ原爆を
                                          世界の上に

                                      (はらからとは兄弟姉妹、同じ国民どうほうの事)
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広島への原爆投下

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市原子爆弾(原爆)投下しました。

これは実戦で使われた世界最初の核兵器で、この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4カ月以内に死亡したのです。

昭和20年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍B29戦闘機が原爆「リトル・ボーイ」を投下。まもなく高度580mで炸裂したこの原爆はこの一瞬の爆発で30万人の民間人の生命を奪いました。

アメリカの原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画(Manhattan Project)」の名前で知られています。この計画の提案者は他でもないアインシュタインです。

1939年8月2日、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードは最近物理学の分野で「核分裂」というものが発見され、この現象を使うともの凄い破壊力を持つ兵器を作ることが可能であり、ドイツがこの兵器の開発を進めている可能性があることをアメリカ大統領宛の手紙で指摘し、ドイツに先んじてアメリカがこれを開発すべきだと主張しました。

この動きはアメリカ国内の科学者の間で広がり、アメリカ政府も動き始めます。数々の準備を経て、やがて1942年8月13日、原爆を製造するためのマンハッタン計画がスタートしました。プロジェクトはニューメキシコのロス・アラモスの研究施設に大勢の科学者を半ば缶詰状態にして進められました。同年12月にはフェルミらが核分裂が連鎖反応を起こすことを確認、翌年からウランの本格的製造も始まります。そして1945年の春頃には、夏頃までに原爆が製造できる見込みが立ちました。

当初計画はナチスドイツに対抗するために進められました。しかし計画が進行する内
にドイツが降伏してしまったため、そのターゲットはまだ戦い続けている日本に変更されてしまいました。

そして1945年7月16日、世界初の原子爆弾ニューメキシコのアラゴモードで実験的に爆発させられました。当時これに立ち会った兵士らは核の恐ろしさを知らなかったため、「景気のいい花火だ」くらいに思って見ていました。無論彼らはしっかり被爆していましたが、それが明らかになったのは何年も後のことです。

計画を推進してきた科学者らは、この原爆の最初の実験を見て肝をつぶします。これほど強力な物であったとは思いもよらなかったのです。彼らは連名でこの計画の中止を大統領に訴えますが、トルーマン大統領は拒否します。彼らはさらに署名を集めますが、軍に妨害されてしまいます。そして計画は進行してしまいました。

このアラゴモードでの実験が行われたその日の内に、日本に投下する予定の原爆は巡洋艦インディアナ・ポリスに積み込まれ、日本への攻撃基地のあるテニアン島へ輸送されました。このインディアナ・ボリスは皮肉なことに荷物を送り届けて本国へ帰る途中、日本の潜水艦に撃沈されてしまいます。

原爆投下目標地点は広島・小倉・長崎・新潟の順に優先することが決定されました。当初京都も目標に入っていたのですが、スチムソン陸軍長官が反対したため外されました。これらの目標都市は原爆の破壊力がはっきり分かるよう、通常の空襲は行わなずに町並みを温存しておくことが決定されていました。
目標は当初の予定通り第一ターゲットの広島と決定されました。午前8時すぎに広島上空に到達。8時15分17秒原子爆弾を投下しました。

広島への原爆投下は「実験」の色合いが非常に濃いものでした。町並みの破壊の程度を確認するために空襲をかけずに温存しましたが、その他にも、アメリカは後に日本に進駐して来た段階で、広島市の生存者の健康診断を行うとともにそれと本来似た分布を示すと考えられた近隣の呉市の住民の健康診断も行っています。

この実験の犠牲になったのは日本人だけではありません。アメリカはこの原爆を使用する前の段階としてカリフォルニア大学病院で4歳の子供を含む18人の患者に、無論本人には知らせずに、大量の放射性物質を投与し、放射能の人体への影響を調査しています。この18人は或いはすぐに死亡したり、或いは足を切断する羽目になったりなど、深刻な放射能障害にかかっています。

マンハッタン計画を進めていたオッペイハイマーら自身も最後の辺りではかなり身の危険を感じていました。彼は万一の時のために最低限記録に残さなければならないことを妻への手紙に書きました。ただしこの時普通に手紙に書けば検閲に引っかかってしまう為、二重にした封筒の内封筒に文章を書くという方法でこれをクリアしました。

アインシュタインが懸念していたドイツの核開発は1944年2月に断念されていました。ドイツは日本とも協力の上原爆の開発を進めており、日本でも数十人の科学者が研究をしていましたが、こちらは1945年4月の東京大空襲で原料のウランが焼失してしまい、こちらも断念を余儀なくされていました。

ドイツは一部のウランを日本に搬送していましたが、この搬送途中の船が連合軍に拿捕されてしまい、このドイツで精製されたウランは広島原爆の材料の一部に使われてしまいました。

広島の原爆の死者は当初1万5千人と発表されました。しかし年を追うごとにその数字は増え続け、現在では15〜20万人程度と推定されています。ただしこの人数はあくまで原爆によりすぐに死んだ人の数であり、その後放射能障害で死んだ人を含めると30万人以上に上るものと思われます。


同じ過ちは決して起こしてはいけないことです。