鎌倉・秋の特別公開

昨日 11月1日〜3日の3日間行われている 建長寺円覚寺の秋の特別公開 そして吉屋信子邸を 見学してきました。

東京から車で約1時間で鎌倉に到着。
早速建長寺から見学です。
建長寺
建長興国禅寺は、鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派大本山です。北条時頼が、建長五年(1253)に宗から来日していた高僧・蘭渓道隆を招いて建立したわが国最初の禅寺です。
創建当時の伽藍配置は,総門、三門、仏殿、法堂などの主な7つの建物が中軸上に並ぶ中国の禅宗様式の伽藍配置になっており49の塔頭(小寺院)を有する大陸的な荘厳なものでした。その後,14,15世紀に起こった数度の火災で,その多くが焼失してしまいましたが江戸時代に入り,高名な沢庵和尚の進言で再建されました。
鐘楼の右奥にある禅堂では、蘭渓道隆が宋から伝えた厳しい禅風が脈々と受け継がれ、現在も厳しい修行が行われています。蘭渓道隆後宇多天皇から大覚禅師の称号をおくられました。これは日本最初の禅師号です。
蘭渓道隆の死後も建長寺は北条氏、足利氏に保護され隆盛を誇りました。この寺を建立した北条時頼は、建長寺を建立した後も、大覚禅師(蘭渓道隆)などに師事し禅宗を深く信仰し、経済的にも寺を支え,信仰者として禅宗を全国へ広めたそうです。

宝物風入
古くから建長寺に伝わっている重要文化財を含む仏像、画書など約200点が、毎年文化の日前後の3日間に限って虫干しをかねて一般に特別公開されます。
創建当時の開山直筆の法語規則や開山の頂相画など、日ごろ目にする機会のない貴重な寺宝類を間近に見ることが出来ました。御庭も素敵でした。
         写真撮影は禁止でしたので、パンフレットから引用させていただきました。 
         
「鉢の木カフェ」で精進料理の昼食を頂きました。
昆布や椎茸から取ったお出汁で丁寧に作られたお料理はとても良いお味でした。
鎌倉幕府5代執権北条時頼が、旅僧姿で訪れた荒れた家を訪れた時のこと、その家主が、時頼とも知らずに栗飯をふるまい、貧相ながらもいざ鎌倉という時には一番にはせ参じる覚悟であると鎌倉武士の心得を語りました。
後年、軍政を集めた時頼は、言葉にたがわず一番にはせ参じたこの武士を鉢の木にちなんで領地として与えたという伝説にちなんだ鎌倉老舗「鉢の木」です。

お椀は「けんちん汁」でしたが、この名は、建長寺の開山蘭渓道隆が、野菜の皮やヘタを無駄にしないようにと発案した「建長汁」が訛って呼ばれるようになったといわれているそうです。
香の物の「たくあん」は、江戸時代、建長寺の復興に尽力した沢庵宗彭が発案したものだそうです。
         
予定では足利尊氏が1336年に建てた長寿寺秋の一般公開に行く事になっていましたが、雨の為一般公開が中止になってしまい急きょ円覚寺の特別公開に変更。

円覚寺
鎌倉五山第二位の円覚寺は、鎌倉幕府八代執権・北条時宗が弘安五年(1282)に創建した臨済宗円覚寺派総本山です。
文永・弘安の役で蒙古の大軍を撃破した時宗は、両軍戦死者の菩提を弔い、精神的支柱となった禅宗を広めたいと願い、師・無学祖元(仏光国師)への報恩の念から、祖元を開祖に円覚寺を建立しました。

仏日庵(開基廟)は、初め時宗の廟所とその墓堂として建立しましたが、後に堂内には時宗以外にも子供の北条貞時、孫の北条高時の尊像が安置されるようになりました。元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めで北条氏が滅びた後も、寺は繁栄しました。
                  この券で国宝・舎利殿も間近で見ることができます。
         
*兆殿司筆の十六羅漢
*お釈迦様の臨終を描いた鎌倉時代後期の作品仏涅槃図
徳川家康の側室、養げん院が奉納した桃山時代の華麗な蒔絵の手箱
円山応挙筆の虎図
*そして、円覚寺開山・無学祖元禅師の所持品香合、竹篦、団扇などお宝の数々がが展示されていました。

舎利殿の入口にとても大きな猫ちゃんが1匹寝ていました。
円覚寺境内には「かなちゃん」「しいちゃん」という2匹の猫が住んでいるそうです。猫好きの私にはたまらない可愛さの猫ちゃんでした。

鎌倉文学館
円覚寺見学の後は 鎌倉文士の歴史が詰まった鎌倉文学館を訪問!
鎌倉文学館は、加賀百万石前田家の別邸として建てられ、16代当主利為によって改築された鎌倉を代表する洋風建築物です。 内閣総理大臣佐藤栄作が別荘として利用したこともあります。多くの鎌倉文士が訪れ、三島由紀夫が「春の雪」に描いた場所です。1983年前田家より鎌倉市に寄贈され、1985年「鎌倉文学館」として開館。
鎌倉の魅力の一つに鎌倉文士の存在があります。大正13、14年に相次いで鎌倉に暮らし始めた里見紝久米正雄。2人は互いに求心力を発揮し、後に移ってきた文士たちのまとめ役となりました。それを象徴するのが昭和8年に発足した「鎌倉ペンクラブ」です。久米らが中心となって結成されたクラブには、里見はじめ永井龍男大佛次郎川端康成横山隆一小林秀雄島木健作ら42人の作家、文化人が名を連ねました。

今回は「山崎方代」特別展&ミニ特集「吉屋信子と鎌倉」が開催中されていました。

晩年を鎌倉で過ごした放浪の歌人山崎方代。戦後を代表する無頼派歌人である山崎方代は、文学者としてよりも人間としての彼に憧れ、その生涯に惹かれる人が多いのでしょう。
種田山頭火と重ねながら、味のある素敵な肉筆で書かれた彼の歌を眺めました。

*なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない
*手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る
*わからなくなれば夜霧に垂れさがる黒き暖簾を分けて出で行く
*こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
*卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり
*戦争が終ったときに馬よりも劣っておると思い知りたり
*茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ
*一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
                             鎌倉文学館                  
         
               庭園には秋バラの良い香りが漂っていました。
         
吉屋信子記念館 
今日の鎌倉最後の見学場所は吉屋信子記念館(旧邸宅)

吉屋信子の名前は幼いころ度々母から聞き、知ってはいたものの、私は彼女の本を読んだことがありませんでした。おそらく若い方は名前すらご存じない方もいらっしゃる思いますが当時の人気作家です。
吉屋信子は、1916年(大正5年)から『少女画報』誌に連載された『花物語』で一世を風靡.。「少女小説」という新しいジャンルを確立し、その後、「大阪朝日新聞」に連載された『地の果まで』で小説家としての本格的活動がはじまります。『安宅家の人々』『鬼火』で第4回日本女流文学者賞を受賞し、文学界に広く認められ、晩年は『徳川の夫人たち』『女人平家』など、女性史を題材とした長編時代小説を執筆しました。彼女は女性解放にも力を尽くしました。。
鎌倉市に寄贈された吉屋信子の旧邸宅は歌舞伎座を設計した吉田五十八氏(近代数寄屋建築の第1人者)により設計された建築的にも価値のある建物です                  
                  土壁の下部分の杉板張りが印象的です。
         
吉屋信子記念館は同氏の晩年の創作活動の舞台になりました。
記念館には「花物語」から、晩年の代表作「女人平家」や「源氏物語」までの原稿や初版本が展示されていました。
           これらの本を読まれて青春時代を過ごされた方には、どれほど感慨深い事でしょう。
         
大きな平屋、寄棟の建物の外観、
室内に入れば、フラットで絨毯の敷かれた洋風な設計でありながら、広く長い廊下があり、一段高みに畳が敷かれ、床の間が設えてあります。座敷と椅子式生活が融合しています。障子は横棧で、壁は吹き付けで、数寄屋特有の欄間などはありません。
         
         
         
雨の為長寿寺の特別公開は見ることが出来ませんでしたが、しっとりとした鎌倉を楽しむことが出来た1日でした。

                    ぽけかる倶楽部主催 「鎌倉 秋の特別公開2景色めぐり」