ラオスの旅     成田→ビエンチャンへ

昨日ラオスから戻りました。政治体制は社会主義のまま、資本主義経済を採用するラオス社会主義
今回のラオス大周遊で地域によっての格差を目の当たりにしました。
                 事業で成功した人の家
       
                     モン族の家
       
人々の温かさ、懐かしく美しい風景、ラオスの情報は多くは有りませんが、魅力あふれる国でした。
       

       

       

       

       

       

ラオスの国土面積 約23万6800㎢
人口       約626万人
宗教       仏教
政体       人民民主共和制
民族構成    モン族 ヤオ族 アカ族等60を超す多様な民族で構成されてい ま す。ラオ族がラオスの人口の約70%を占めています。

ベトナム戦争に巻き込まれたラオスラオスは人口一人当たりに落とされた爆弾の量は世界一になります。
ベトナム戦争中、大規模な地上戦が繰り広げられ、同時に激しい空爆が行われました。1964年から1973年の間に50万回以上のアメリカ軍による爆撃が行われ、ラオス全土に200万トンを超える爆弾が「シエンクワン県を中心としたラオス北部」と「ホーチミンルートの通る南東部の県」に集中して落とされました。ラオス人1人あたり
1トン以上の爆撃がされたそうです。
何故このような事が行われたのかというと、ラオス北部では、シエンクワン県を中心に北ベトナムの兵士も多数入り、ラオスの村を共産化していったことから、これを阻止するためにアメリカ軍は大規模な空爆を行いました。一方ラオス南東部からカンボジア北東部にかけては、北ベトナム軍の兵士、軍需物資の補給ルート、「ホーチミンルート」 が走っていたことから、アメリカ軍により爆撃されました。
北ベトナム南ベトナムを分断する非武装地帯、北緯17度線は非常に強固に防御されていたため、北ベトナム南ベトナムへの供給路としての道を見つけなければならない状況にあった為、北緯17度線周辺のラオスベトナム国境に隣接したラオス東部を通るジャングルの中に、苦労の末、道が切り開かれました。この道が「ホーチミン・ルート」と呼ばれるようになりました。深いジャングルに覆われたこの道を、ベトコン(ベトナム共産勢力)の戦争を助けるためにトラックや自転車、人々が通っていきました。アメリカは南ベトナム政権を支えるため50万の地上部隊を送りました。南部への兵士や軍需物資の流れを妨げるため、米軍機は、北ベトナムだけでなく、この「ホーチミン・ルート」の周辺のラオス領内も爆撃しました。

大量にまかれた枯葉剤  
ベトナムでは「ベトちゃん、ドクちゃん」などの奇形児が生まれる原因になったと指摘されている膨大な量の枯葉剤や除草剤が、ラオス領内のホーチミン・ルート周辺でも大量に使われました。
今回の旅で山岳地方の村を見学しましたが、この貧困層地域は、ほとんどが不発弾によって影響を受けているようです。

1日目
9時25分発 ベトナム航空301便にて成田を出発。6時間のフライトの後
13時50分 ホーチミン・タンソンニャットに空港到着。時差は−2時間。
16時50分 ベトナム航空920便にてホーチミン空港を出発。
17時20分プノンペン・ポチェントン空港経由 少しだけカンボジアに滞在?セキュリティーチェックを受けすぐに同じ飛行機に戻り19時40分 ビェンチャン・ワッタイ空港に到着。

近いようで遠いラオスにようやく到着、空港でガイドのティヤイさんと合流 宿泊のメルキュールホテルに20時40分に到着。明日の早朝出発に備え早めに就眠。