金子みすゞ記念館

昨日「絶景の角島大橋金子みすゞ記念館と北長門あわび祭り」と言う日帰りバスツアーに行って来ました。

博多駅(8:00)―美祢(ブルーベリーのお茶の試飲、買物)―海鮮村北長門(あわび2個使ったあわび三昧の昼食)―仙崎(12:45〜13:45 ガイドの案内で通りを散策、金子みすゞ記念館を見学)
角島大橋(全長1780m、コバルトブルーの大海原に架かるCMで有名な名橋)―角島灯台公園(紺碧の大海原を眺望)―川棚クスの森(1本の楠の木が森のように見える国天然記念物を見学)―博多(19:20頃)

今回このツアーに申し込んだ 私の第一の目的は金子 みすゞ記念館に行くことでした。

金子 みすゞとは
大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人です。本名、金子テル。
大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされています。1923年(大正12年)に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは若き童謡詩人の中の巨星と賞賛されました。

今回またまた知らなかった事を発見しました。

まず第一に 金子みすゞの生まれ育った土地がどんな所かあまり想像していなかったのですが、
バスから降りて目の前に広がる海を見て、そしてこの地のことを伺い、あ〜「大漁」はこのような
場所で育ったから生まれた詩なのだと納得しました。金子みすゞが生まれ育った仙崎は、山陰屈指の水揚げを誇る漁港を日本海側屈指の漁港として、また戦後の引き揚げ港としても知られた土地なのです。実際に現地に行ってみないとわからないものです。

          

第二に金子みすゞの記念館の中庭にある石に書かれた詩を見て、幼い頃私がよく歌っていた
「お使いは自転車に乗って」は、金子みすゞの弟が作ったものだったことを知ったこと。
そして、彼が劇団若草創始者だった事も調べて初めて知りました。

          
みすゞと弟上山輔雅

みすゞの理解者であり、心の支えでもあった上山輔雅(本名上山 正祐)しかし彼は金子みすゞの実の弟であり姉弟だったのです。幼くして養子に出された雅輔は金子みすゞのことを従妹と思い込んでいました。それが後々悲劇を生むこととなってしまったのですね。
作曲家を志す雅輔は実の姉とは知らずにみすずの詩に感激し特別の愛着を抱いてしまいました。みすずの詩を作曲し世に出すことを夢に見て、詩や唄について毎晩遅くまで語り合いました。詩への愛着はいつしか強い恋へと発展してしまったのです。

二人を心配した養父は姉弟を引き離すためにみすずを上山文英堂(母の再婚先:海外にまで支店を持つ大店)の番頭、宮本啓喜氏と無理やり結婚させることになりました。

宮本氏の放蕩ぶりを知っていた雅輔は猛反対しましたが、みすずが実の姉と知らされ衝撃を受け家を捨てます。

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晴天に恵まれ。バスは順調に美弥に、ブルベリーのお茶を頂き買い物をした後、昼食会場の海鮮村北長門に到着。鮑の昼食を頂きました。動いている鮑、ふたをして待ちます。
こんな時 金子みすゞ風に詩を作ると・・・・・・・・・・・・鮑の気持ちになり焼けるのを待ちました。

          
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お食事会場から金子みすゞ通りはバスですぐです。

地元ガイドさんの案内で、通りを歩きます。

長門市青海島の向岸寺には鯨墓があるそうです。ここは昔鯨が沢山とれました。鯨にはおなかに胎児がいる場合があります。この地方の人々は「鯨としての生命は母鯨と共に終わったが、われわれの目的はおまえたち胎児をとることではなかった。むしろ、海へ放してやりたいのだが、広い海へ放たれても、独りではとても生きてはいけまい。それ故に、われわれ人間と同様に念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを得てくれるようにお願いする。」ということで、鯨墓にとどまらず、鯨過去帳の作成や卒塔婆や戒名までつけたそうです。金子みすゞの「大漁」の詩が生まれた背景がわかったように思いました。

遍照寺にはみすゞのお墓があります。

          
このお墓が発見された時の様子などをガイドさんに伺いました。
みすゞの発掘者の矢崎節夫氏が 初めて仙崎を訪問し、地元の人たちを集めて取材を始めたとき、激しい豪雨となり雷鳴が とどろき、その豪雨が墓石の表面の苔を削り取り、みすゞの本名である
金子テル(子)の文字が現れたのだ そうです。それまで、お墓が判らなかったのですが、これによって明らかなりました。
 
          

極楽寺         みすゞが「仙崎八景」のひとつとしてうたった極楽寺

          
          

     極楽寺
     極楽寺のさくらは八重ざくら、八重ざくら、使いにゆくとき見て来たよ。
     横町の四つ角まがるとき、まがる時、よこ目でちらりと見て来たよ。
     極楽寺のさくらは土ざくら、土ざくら、土の上ばかりに咲いてたよ。
     若布結飯のお弁当で、お弁当で、さくら見に行って見てきたよ。

みすゞ通り中ほどにある、旧JA倉庫に展示されている「プロジェクトM20000」は、蒲鉾板20,000枚を組み合わせて、金子みすゞの詩「大漁」の世界を表現しています。この「プロジェクトM20000」には仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチ押すとブラックライトに照らされ大羽鰯の大群が浮かび上がります。

「わ〜」浮かび上がった大羽鰯の群れに皆から歓声が
          
          
金子みすゞをモチーフにした蒲鉾板によるモザイク画は、仙崎のみすゞ通りに5か所あるそうです。

通りは町屋造りの家が軒を連ね、みすゞの詩を書いた札が店や家の前に掛けてあります。
ガイドさんに伺ったら、2000枚の札を町が配り、希望者が好きな詩を選んで書いて表に掛けているそうです。 各々のお宅が工夫した詩の札を見るのも楽しいです。

          

          
     角の乾物屋の
     角の乾物屋の 塩俵、日ざしがかっきりもう斜(なゝめ)。
     二軒目の空屋の空俵、捨て犬ころころもぐれてる。
     三軒目の酒屋の炭俵、山から來た馬いま飼葉。
     四軒目の本屋の看板の、かげから私はながめてた。

金子みすゞ記念館2003年に生誕100年を記念して、実家跡に書店「金子文英堂」を再現したものです。

          
一階には書店が再現されていて年代物の本や雑誌の復刻版が並べられていました。 

店の帳場
          

          
二階のみすゞの部屋
この窓から通りを眺めていたそうです。

                    
          

2階の他の部屋には、弟祐介氏に関する記事や資料がありました。

お風呂
          

          

本館には、みすゞギャラリーや展示室がありました。生涯を紹介するビデオルームもありました。  
(本館は撮影禁止でした)

娘ふさえが生まれた後も、夫の放蕩は収まらず、家庭を顧みることはなく、みすゞは夫から病気までも移されてしまいます。
更に夫から、詩作ばかりか投稿仲間との文通までも禁じられ、3年後、2人は離婚することになります。(手続き上は成立していない)みすゞはせめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れましたがすぐに考えを変え、娘の親権を強硬に要求。夫に娘を渡すことにしていた日、夫への抵抗心からみすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺してしまいます。

他者を思う優しい詩を沢山残したみすゞが、どんな気持ちでわが子を残して逝かなければならかったのかを思い、資料を見てまわりました。

            

今回のツアーの続き角島と川棚クスの森は又ご紹介します。