壱岐の旅

昨日壱岐に行ってまいりました。

博多埠頭は初めてですので、早めに家を出ました。10時の出港まで時間があります。
          

と、なんと! ターミナルの近くの広場で骨董市の準備中。70店近くが出ています。そこで集合時間まで、楽しいひと時を過ごしました。

                    

いよいよ出港。天候も良く、海は穏やかでした。壱岐は博多から、フェリーで2時間20分ジェットフォイルなら70分で着きます。

長崎県のリプレイス事業の一環として、昨年の九州商船の長崎〜五島航路の「万葉」に続き、今年4月より、九州郵船・博多〜壱岐対馬間に就航したフェリー「きずな」。まだ新しい船です。
           
3連休の中日。船内は満員。

いよいよ 郷ノ浦港に近づいてきました。
         
                    
私達が下船した後この船は対馬へむかうのです。
          
下船してすぐに観光するバスに乗り込みます。お迎えのバスには最後に立ち寄るお土産屋さんから案内する方が来て下さいました。「ガイドのようなガイドです。」とおっしやいましたが、とてもお話の上手な方です。

バスは勝本町にあるい昼食場所割烹富士に向かいます。

壱岐市は、平成16(2004)年 3月1日、長崎県壱岐郡郷ノ浦町勝本町芦辺町石田町の4町が合併し、現在は長崎県壱岐市の1市体制です。
1988年から1989年にかけての日本で、各市区町村に対し地域振興に使える資金1億円を交付した政策「通称ふるさと創生事業」4町に1億ずつ4億頂の交付がなされたようです。
その一例1億をかけて作られた勝本町の古民家群が車窓から見えました。

勝本という町は耕地率が高く、海運とともに農漁業で栄えたところです。県内の古墳中、約六割は壱岐に所在し、とりわけ勝本の百合畑触は古墳の集中地域。
十数年前、国策として「ふるさと創生事業」が実施された折、勝本町では創生事業により百合畑触古墳群を含む「壱岐風土記の丘」を整備し、同地へ古民家群の移築が行なわれました。古民家は、掛木古墳の北側にあり、旧冨岩家住宅の母屋を中心にウシノマヤやインキョなど4棟。このほか文化財の展示館のある管理棟が附置され古民家園を成しています。

壱岐の農家はおよそ100〜200m位の間隔でポツンポツンと点在しています。
農家の建物の向きは、どこの建物でも同じですが、南又は南東向きで、背後には背戸山(せどのやま)と呼ばれる樹林があります。背戸山は、風除けのためと、外敵が攻めてきたときに、家を隠すために作られました。背戸山にはマツ、シイ、ヒノキ、スギどの常緑樹が多くあります。
農家の建物は母屋、隠居、物置、牛屋など、3〜4棟の家屋が普通は、並んでいます。
農家の庭先には自家用の小さな野菜畑があります。古民家は江戸時代の農家のモデルハウスです・

江戸時代に、壱岐では、「隠居制度」が確立していました。家督を譲った
老夫婦が住むインキョヤが、はっきりと独立して造られていたそうです。

もちろん、今は麦わら屋根の作りではありませんが、現在でもこの風習は残っていて、
長男が結婚すると、親は敷地内に家を建て結婚していない子供とそこに移り住むご家庭も残っているそうです。家計は別々ですのでお嫁さんには喜ばれているそうです、
                       車窓から
          

人口29000人、縦長の島は、車で4〜5時間あれば島を1周して、観光できるそうです。

昼食
割烹富士に到着。楽しみにしていたお食事です。

イカの新鮮なこと!
特に剣先イカが有名です。剣先以下の中でも特に大きく品質がいいものを「壱岐剣」
としてブランド化されています。

サザエ  玄界灘の荒波で育った壱岐のサザエは、 荒波に耐え抜くため、流れぬよう角が大きくなり身が引き締まったのが特徴です。

イカは新鮮なため頂く時に吸盤が口の中につきます。ウニご飯も美味しかった!

               この他イカの天ぷらも頂きました。
          

猿岩
黒崎半島の突端にある、海蝕崖の玄武岩で、高さ約50Mの大岩では猿が左を向いた姿に似ています。自然岩です。自然の偶然凄いですね。

          

          
方向を変えて見てみました。猿に見えません。ただの岩なのです。
          

砲台跡
黒崎半島の大部分は戦時中は、一般市民は軍隊の基地や砲台があったために立ち入り禁止区域になっていたそうです。

猿岩の駐車場から歩いてすぐ近くに東洋一の砲台跡(黒崎砲台跡)があります。
対馬海峡を航行する敵の艦船を攻撃するために太平洋戦争のときに造られました。口径41cmのカノン砲二門の要塞砲で普通は地下にもぐり海からは見えないようになっていたそうです。長さ18.83m、弾丸の重さ1トンの弾丸を35Kmも飛ばす威力があり玄界灘をすべて射程内にしていたとのことですからすごいですね。でもここは一発も実弾を発射することがなかったそうです。
                        巨大な地下要塞です。
          

左京鼻
八幡半島の突端にある左京鼻のお話。
江戸時代の初め、壱岐は大干ばつに襲われました。
雨が長い間降らず、作物も枯れてしまい、人々は苦しんでいました。
そこで、2人の人が雨乞いをすることになりました。
1人は、陰陽師の後藤左京和尚で、ここ八幡半島の突端で雨乞いをしました。
もう1人は、龍蔵寺の日峰和尚で、芦辺浦にある芦辺の辻で、雨乞いを行いました。
2人は、一心に雨乞いの祈祷を7日7夜行いました。それでも雨は降りません。
責任を感じた左京和尚はこの左京鼻の崖から飛び込もうとしました。
また、座禅をしていた日峰和尚も周囲にあった火をつけられた千把の麦わらの中で焼身自殺をしようとしました。
と、その時、一転にわかにかき曇り、突然車軸を洗うような大雨が降り出し、村中の人々が喜んだということです。

この祈祷のとき、日峰和尚が着ていた、焼け焦げた袈裟が龍蔵寺にあるそうです。

左京鼻という名前は、後藤左京和尚の名前から来ています。

先端は断崖絶壁になっています。何の囲いもないので下をのぞくと足がすくみます。風がとても強く怖かった。もっと険しい画像を撮れるのですがこれ以上近寄れませんでした。
          

はらほげ地蔵
はらほげとは、お腹に穴がほげていることだそうです。(「ほげる」とは「穴があく」の意味)

何故穴が空いているかと言うと、海の干満により身体の半分ほど海水に浸かるため、お供えものが流されないようにしたものではないかと言われています。
直径3㎝ほどの小さな穴で満潮時にお供え物が流されないように貫通はしていません。

お地蔵様は6体あり、六道(仏教において、この世に生を受けたもの全てが善悪の因果によって転生する「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人間界」「天界」の六界を指す)における苦しみや悩みから救うのだという。

島のひとの信仰のあつさがうかがえます。お彼岸などにはお墓詣りに行く前でお参りするそうです。3㎝の小さな穴に入れるお供え物は、小麦粉で作った小さな小さなお団子とお米だそうです。

潮が満ちると半身が海水につかるとのことですが引き潮だったので階段を下りてお地蔵様をお参りすることが出ました。
先日の台風で1体が倒れたそうですが、すぐに直したそうです。

観光客がお賽銭を入れるのでしょうか。穴には10円玉や5円玉がお供えしてあります。私達ツアーの人々も真似をして拝ませて頂きました。
          

          
海を背にしています。もともとはお顔が無く、可哀想に思いセメントで足したようです。此のお地蔵様は何時だれが、何のために祀ったか、明らかではないのですが、遭難した海女の冥福のため、又捕獲した鯨の慰霊のため、あるいは疫病退散祈願のためとも伝えられているそうです。数回場所を移動したそうです。

          
ここに来る途中海女さんが多い海女の集落として有名でな地区を通りました。今でも多くの海女さんが頑張っているそうです。海女漁の期間は5月から9月いっぱい。潜水具を使わない素潜り漁です。壱岐では赤ウニ、紫ウニ、馬糞ウニの三種類が採れます。1日1万5千ぐらいの収入があるそうです。以前は年に200万ぐらいの収入があったそうですが、現在は150万ぐらいだそうです。漁のない月は、漁に適した体型にするため太ることに専念すると案内の方は話されましたが、冗談?

いよいよ島ともお別れ。
お土産は「あまごこころ本舗」で購入。

ウニやウニご飯のもと、おまけに壱岐の塩まで買い込んで、最後は恒例、その土地のアイスクリームを頂きました。
             ウニアイスクリーム美味しかったです。
                      

帰りのフリーは波が高かった為デッキには出ることが出来ませんでした。
心地良い揺れ?を楽しみ無事博多港に到着。
          
壱岐は歴史のある島です。今回「一支国博物館」には行くことが出来ませんでしたが、楽しい壱岐の1日ツアーでした。
   
                                    西鉄観光 旅行代金 7,900円