マレーシア ボルネオ大自然の旅

5日目
マラッカに
今日はクアラルンプールの朝市を見学した後、マラッカに向かいます。

朝市
朝早くから地元の主婦が買いものに来るところです。買い物の前にご近所の人とおしゃべりをしながら、市場の中で朝食をとる事が多いようです。
値段は安くて新鮮ですが、市場の中は綺麗ではありません。12時ごろ市場はしまり、その日残った品物は全てスーパーやレストランに流れ、高い値段で売られるそうです。
お金持ちは設備の良いスーパーでその品物を買うそうです。
ですので、この市場で売られている品はとても新鮮です。
          

イスラム教徒は豚肉を食べないので、豚肉を食べる人はここから入ってはいけませんと表示された看板があります。
                 
              イノシシが丸ごと売られていました。
                 
              白ナマコも安価で売っていました。
        

        

        
朝市を見学した後世界遺産に登録されているマラッカへ

昼食はニョニャ料理
15世紀ごろ、多くの中国人がマレー半島に移り住み、現地の女性(おもにマレー人)と結婚。
生まれた子供たちのことをプラナカンといい、彼らが作り出したのが、ニョニャ料理です。
マレー系の特徴である多様なスパイスを使い、中国系ならではの食材を融合させた料理です。
イスラム教ではタブーとされる豚肉を使うのもニョニャ料理の特徴です。
 
                  

マラッカ
マラッカはクアラルンプールからバスで約1時間30分(約90㎞)の所に位置します。

1400年にマラッカ王国が誕生し繁栄した後、400年以上の間にポルトガル、オランダ、イギリスと
ヨーロッパの列強国に支配され、独特の文化を形成した古都・マラッカ。街にはヨーロッパの影響を受けた街並みと、地元マレーとの融合で出来上がった特有の文化を見ることができます。
2008年7月には、ペナン島ジョージタウンと共にマレーシアでは初のUNESCO世界文化遺産
登録されました。

        
車窓から
埋立地の新興住宅地に綺麗な建物が沢山建っています。埋立地の地価は2割ほど安いそうです。
        

青雲亭寺院
マレーシア最古の仏教寺院「チェンフーテン」

青雲亭はマレーシアで一番歴史の古いお寺です。15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けて、大艦隊を率いてマラッカに寄港した明の提督・鄭和の功績を称えて、1646年に開基されたといわれています。本堂は1704年に建てられ、1801年に改築されました。

青雲亭はマラッカの中国系住民の頭目(キャピタン)によって建てられ管理されて、お寺の機能の他に、マラッカの中国系住民を統治する役所と裁判所の機能も果たしていたそうです。
        

資材の全てを中国から運び、中国人によって作られました。

本堂の入り口左右の柱に、青雲亭の名前の由来の、「青蓮開佛国」「雲雨潤蒼生」の対聯が掛けてありました。本堂の中央に観世音菩薩が祀られ、観世音菩薩の左には漁業と航海の守護神
「媽祖(まそ)」が祭られています。
        

左は海運を司る仏さま。中央は心を穏やかに護る観音菩薩。右には正義と平和を司る仏さまが並んでいます。儒教、タオイズム、観音菩薩、現世利益を願う中国仏教が混合しているお寺です。

本堂を守る赤い獅子の頭をなでると富と健康が得られると言う事なので しっかり撫でてきました。  
        

        

少し歩くと風景が変わって来ました。
        

        

        

オランダ広場のキリスト教
1753年に完成したオランダ建築の代表作とされる木造の教会です。高さ30mの教会の天井の梁は、継ぎ目のない一本の木を使い、組み合わせにも釘を一本も使っていないという高度な建築手法が用いられています。
オランダがポルトガルに打ち勝って,マラッカを占領した100周年の記念事業として建設が始められ10年を経て完成しました。
この教会(プロテスタント)は現在も使われており,曜日と時間を分け,英語,中華語,タミール語のお祈りが行われるそうです。
        

セントポール教会跡
オランダ広場から少し登った丘の上にセントポール教会跡があります。マラッカ王朝を駆逐し,占領したポルトガル軍が1521年に建立したカトリック教会です。当時ヨーロッパではプロテスタント運動が起こり,カトリックと対立していました。大航海時代が始まり,カトリックはアジアに活路を求めた頃です。その布教組織がイエズス会,アジア担当のフランシスザビエルだったのです。ザビエル像が建っていました。.
1552年に亡くなったザビエルの遺体が9ヶ月間安置されたと言う穴蔵がこの教会の床にあります。
        
セントポール教会跡のあるセントポールの丘は、マラッカの街を見渡せるベストビューポイントです。小さな住宅が遠くに見えます。実は埋立地に建てられた住宅です。サンチャゴ砦の前までが海だったそうです。
        
                    

教会跡に並ぶ墓石
        

教会史跡内部には高さ2メートルの墓石がズラリと並んでいました。この墓石には深い意味がこめられています。この墓石に刻まれているのは同じキリスト教徒でもプロテスタント派の功績者・信者さんたちなのです。ローマ・カソリック教を否定し、この教会が荒れ放題にしたプロテスタント派の墓石がなぜココにあるのでしょうか? 1957年、長かった植民地としての歴史に幕を引きマラヤ連邦として独立したマレーシア政府はこの丘にマラッカ州を統括する「知事」の公邸(現在のガバナー・ミュージアム)を設置しました。イスラム教徒だった知事の公邸から見下ろす丘陵地に点在していたのは墓石でした。この丘の北側にある、オランダ統治時代に建築されたプロテスタント教会クライストチャーチ」の墓地として利用されていたのです。
イスラム教徒とキリスト教徒の死後の世界に対する価値観が相反するため、マレーシア政府は墓地の撤去を宣言し、庭園建設工事に取りかかろうとしました。この情報を知ったクライストチャーチ信者さんたちは、墓地撤去に抗議しましたが、マレーシア政府はこれを拒絶。墓地の代替え地も見つからないまま困っていたその時、カソリック教会が救いの手を差しのべました。
せめて墓石だけでも保存したい!というプロテスタント派の信者さんの気持ちをくみ取り『キリストの名において同盟者として』カソリック派の信者さんが撤去工事の進む現場でチカラを合わせて墓石を、このセントポール教会史跡に運び込んだのです。いいお話ですね。
        

サンチャゴ砦
15世紀になるとポルトガルが香辛料を求めて交易にやってきました。王国は海峡の通行税を取っていましたが、16世紀、ポルトガルが軍事侵攻し、マラッカを植民地化しました。このサンチャゴ砦は1511年ポルトガルによって建造された要塞です。
当時セントポールの丘に置かれた司令部はマラッカ海峡から攻め入る外敵を防御するため,周りにぐるりと城壁を築き,4ヶ所のゲートを設けました,
後にポルトガルから奪い取ったオランダもここを利用し、其ののち後独立後の知事公邸もここに置かれたそうです。防壁は19世紀にイギリスによって取り壊され現在は石造りの門と大砲のみが残されています。
        

見学の後お土産物やさんに立ち寄った後、今日の宿泊地ポート・ディクソンに向かいます。

明日は旅の最終日。バツー洞窟見学が楽しみです。