スリランカと日本の友好関係。日本に偉大な貢献をしてくれたスリランカ

昨日暑いスリランカから戻りました。7日の出発時に春を感じていた東京でしたが、昨日の成田の気温は7度。今日は又暖かくなりそうです。

インドからわずか32㎞の場所に位置するスリランカは美しい自然と魅力的な遺跡が残っています。

内戦の終結により平和で穏やかな国に戻ったスリランカ、少々ハードな旅の行程でしたが多くの経験をすることが出来ました。

最後の観光地ゴールからコロンボまでバスは高速道路を走りました。

2011年11月に開通したスリランカ初の高速道路は何と日本製です。
日本の国際協力機構(JICA)とアジア開発銀行(ADB)の援助協力により実現したものです。

これにより、コロンボから南部の都市ゴールまでの所要時間が大幅に短縮され、観光促進や地域経済活性化も期待されています。        
        

日本が行っているのは、道路の建設だけに止まらず、日本から技術者も派遣し、安全管理の指導に当たっているそうです。料金収集システムや維持管理(消防車、救急車,標識車、クレーン車など)も日本の援助でなされているということもあり、高速道路を走ると、どことなく日本の高速道路を走っているような感覚を覚えます。
          南部ゴール市からコロンボまでの96km、バスは快適に走ります。
        

        

サービスエリアの中もとても綺麗
        

このサービスエリアでライムジュースを頂きました。130スリランカルピー(約100円)
        

スリランカの国会議事堂も1982年の日本のODAによって建設されました。
人工湖の中に建てられている美しい国会議事堂。
スリランカの首都であるスリジャヤワルダナプラコッテには、この国会議事堂があるだけで、
今でも経済・文化の中心地は旧首都のコロンボです。

        

日本の援助はこれだけでなく成田山新勝寺などの寺院や個人が幼稚園建設に多くの援助をしています。

忘れてはならない偉大なる貢献をしてくれたスリランカの事
ガイドさんは日本からの援助の事を何回も説明されました。しかし、スリランカが日本に貢献してくれたことに関しては一言も触れませんでした。
1951年のサンフランシスコ平和会議での発言は決して忘れてはならないと思います。
第二次世界大戦中、セイロンはイギリスの植民地として日本軍の爆撃を受けました。
それにも関らず、敵国である日本兵の死者を手厚く葬ってくださいました。
1951年9月のサンフランシスコ対日講和会議で、アメリ戦勝国達が日本を植民地化して自由と主権を支配しようとしている時に出席者の中で最も小さい島、セイロンの代表であるジャヤワルダナ大臣が真っ先に、「日本があらゆる制約を受けずに自由と独立した国家として認める様に」と戦勝国やその他の国々に対して発言し、更に「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」という
ブッダの言葉を引用し、対日賠償請求権を破棄。日本は真に独立した国でなければならないと、ソ連の制限案に真っ向から反対し、参加国に寛大の精神を求めました。
その結果スリランカアメリカ側の意見に沿って無事に条約が結ばれ、日本国は無事に独立を勝ち取ったのです。
サンフランシスコ平和会議においてスリランカの発言がなかったら、現在の日本はなかったかもしれません。

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さて、この旅の一番の目的シギリア・ロック。朝までの大雨もやみ無事に登る事が出来ました! 
                

スリランカの旅は次回ブログでご紹介したいと思います。