スリランカの旅  奇跡の世界遺産 「ゴール旧市街とその要塞群」

7日目  旅の最終日(前編)

ライトハウス・ホテルを後に、ゴール観光に出発。

ゴールはスリランカ南部最大の町です。
港町としては古くは、14世紀頃にはアラビア商人たちの東方貿易として繁栄し、1589年には、んポルトガル人達によって初めて砦がつくられました。

これをきっかけにゴールの外国人による支配が始まります。1640年にはオランダが砦を拡張し、ぐるりと取り囲む城壁の中に町を築きました。

イギリス植民地時代にも、支配の拠点として重要な位置を占め、堅固な砦を持つ城塞都市として完成しました。

オランダ植民地時代の面影は、海岸沿いに300年そびえる砦、ゴール・フォート(ゴールの城塞と
言う意味)内に広る美しい街並み、海岸沿いに残る美しい建築物に見ることが出来ます。

1988年「ゴール旧市街とその要塞群」は世界遺産に登録されました。
この世界遺産は、多くの人が犠牲となった2004年12月26日のインド洋大津波で、一人の犠牲者も出さなかったことで、「奇跡の世界遺産」と呼ばれています。

2004年12月、インド洋大津波の時に押し寄せた6メートルもの津波から街を守ったのは、植民地時代の遺産の砦でした。城壁がぎりぎりのところで津波を押しとどめ、人々の生命、そして世界遺産に指定された美しい町並みを守ったのです。砦に囲まれた旧市街は意外なほど狭く、インド洋に突き出た半島になっています。ゴールの新市街が大きな被害を受けたのに比べ、旧市街は砦に守られほとんど被害がありませんでした。

ゴールの旧市街。
頑丈な石の壁。ムーン要塞の中に時計塔が建っています。

          

                        

17世紀にオランダが築いた高さは20メートルから低いところでも6メートルある城壁は、
他のヨーロッパ列強国の攻撃から街を守るため、要塞として頑強に造られました。
          

          

こちらは、敵の捕虜を収容した牢屋跡。屋根にあるのは空気穴?。 幅の狭い中庭の壁は垂直で逃げられないようになっています。         とても幅が狭い中庭(捕虜の運動場)

                   

ここには、海に向かって砲台が据え付けられていました。軸に砲台の中心を乗せ、周りのレールに沿って発射する向きを変えたのでしょう。
          


フラッグ・ロック
近づいてくる船に対して周辺にある岩に注意をするようこの上から、合図を送っていたことから
フラッグ・ロックと呼ばれているそうです。

フラッグ・ロックから飛び込む写真を撮らせてあげると言うパフォーマーがいました。
高さもあり、眼下の海は岩も多く危険。
添乗員さんが (定かではないですが、確か1000スリランカルピーを払い) 私達にシャッターチャンスをくださいました。
          
もう一度おまけに下の岩から 
          
フラッグ・ロックからは灯台が見えます。城壁を歩いて灯台に進んで行きます。
この灯台は焼失した為、昔から残ってるものではなくメインゲートと同様、イギリスによって1939年新しく建てられたもです。
          

城壁内の旧市街はスリランカの他の街とは違った趣で、仏教文化の建築物はほとんど目に付きません。教会やモスクが多く、コロニアルスタイルの家屋やそれを改装したホテル、土産物屋が、植民地時代の面影が残る街並みを形成しています。
  
要塞内の通りに住むのはイスラムスリランカ人が多いそうです。中東との間で宝石商を営む比較的豊かな層だそうです。

灯台のすぐ横にモスクがあります。白い壁が鮮やかです。
          

オランダ教会
スリランカで最も古いプロテスタント教会です
          

中は修復されています。異国の地で亡くなったオランダ人達の地下墓地があります 。
外には植民地時代の墓碑が残されていました。
          

**************************************
ゴールからコロンボに向け海岸線の国道をバスは向かいます。ここゴールも、津波で島の3分の2の沿岸を襲われ、大きな被害を受けました。

2004年のスマトラ沖大地震によるスリランカ津波被害は、死者約35,000 人、負傷者約20,000 人、80万人以上が住まいを追われ、15 万人の労働者が生計手段を失いました。

ゴール旧市街は砦に守られほとんど被害がなかったのですが、津波は町の中心部周辺地域を破壊してしまいました。

この付近ではインド洋大津波で列車が流され多くの死者を出しました。
                    
慰霊の仏像
被災地に、東本願寺が慰霊のために建立した大きな像が立っています。 

インド洋大津波の被害者を追悼するために建てられた高さ18.5mの仏像。
2006年12月に、日本の本願寺維持財団が建立しました。

この辺りはもっとも悲惨な場所でした。コロンボ発ゴール行の客車が通過中に津波を受けて脱線、機関車は流されました。最初の津波で人的被害を免れたため、住民たちは「列車は安全」と思い込んで殺到しました。そこに第2波が押し寄せたのです。そのため、乗客や地元住民ら1700人が死亡したといわれます。
          

スリランカと日本の友好関係
「あのとき我が国を助けてくれた友人の日本に、できる限りの協力をしたい」。スリランカ政府は東日本大震災の被災者支援のため、義援金約8千万円を送るほか、特産の紅茶のティーバッグ300万個も寄贈してくださいました。福島第一原子力発電所の事故を受け、国によっては東京から退避した大使館もある中で、カランナゴダ大使は予定を変えず着任し、「こんな時こそ日本との結束を示すために、私は送られてきた」。日本在住のスリランカ人には「日本にとどまり日本人を助けるように」と伝えています。スリランカのお寺では1か月の間毎日日本の事を思いお祈りして下さったそうです。決して裕福と言えない人々も寄付をしてくださいました。

慰霊碑(コロンボ発の列車が津波にのまれ、多数の犠牲者を出した場所です)
スリランカは北西部を除いてほとんどの海岸が被害を受け、津波の大きさとしては東側がひどかったのですが、人口密度は西側が多く、人的被害も西側が大きかったのです。この列車事故ががスリランカ津波被害の象徴でもあるようです。
           

          

**************************************
アンバランゴダの仮面博物館

アンバランゴダは、スリランカでも有数の仮面制作で知られる町です。
この仮面博物館は、1階は劇で使われる仮面の展示と悪魔祓いの儀式のための仮面が展示されており、2階は仮面のショップになっています。
          

          
熱心に仮面の事を調べている地元の学生。
             

          

いよいよスリランカの旅も終わりに近づいてきました。

これからコロンボに向かい市内を観光をします。