コーカサスの旅 アルメニアに入国
5月14日 5日目 前編
昨夜グルジアに入国したばかりなのに、今日はもうグルジアを出国、アルメニアに行きます。
グルジアの観光は 後日アルメニア観光後、再度入国してからになります。
何故?
アゼルバイジャンとアルメニアはナゴルノカラバフ問題で対立していて、陸の国境は閉鎖されているので、グルジア経由で行かなくてならないからです。
ナゴルノ・カラバフ戦争とは、アルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る争い。戦争は泥沼化し、現在は事実上、アルメニア人の占領下にある。
両国が争っているのはアゼルバイジャンの西部にある山岳地帯に存在するアルメニア人居住区である「ナゴルノ・カラバフ自治州」である。このナゴルノ・カラバフ自治州は住民の4分の3がアルメニア人である。この自治州がソ連崩壊直前からアルメニアへの帰属を求め、アゼルバイジャンとの紛争になったのである。
アルメニアとアゼルバイジャンはともに中央アジアに位置しており、黒海とカスピ海に挟まれているカフカス山脈の南に存在する。しかし、隣り合う両国は、民族、宗教ともに大きな違いがある。アゼルバイジャンはトルコと友好関係にあるイスラム教(シーア派)が多数住む国であるが、その一方、ロシアと強固な関係をもつアルメニアは、キリスト教国である。1988年に、ナゴルノ・カラバフ自治州に住むアルメニア人が、アルメニアへの帰属をアゼルバイジャンに要求すると、アゼルバイジャンは自治州を廃止、共和国が直轄統治するという措置を取ったのである。当然だが、ナゴルノ・カラバフの住民はアゼルバイジャンに対して強い反発をした。ソ連の崩壊に際し、両国は共に1991年に独立を果たすが、1992年に、ナゴルノ・カラバフ側が一方的に「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立を宣言したのである。これをきっかけに、紛争が勃発。さらに、ナゴルノ・カラバフ側にはアルメニアが加担し、本格的な戦争に発展した。1994年にロシアとフランスが仲介を請け負い、停戦が成立した。この紛争により、2万人の死者が発生し、難民にいたっては100万人以上が発生した。
この停戦の際の調停案の和平案には「アルメニアが占領したアゼルバイジャンの領土の返還」「ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属後は自治共和国に昇格」などと書かれており、この紛争を有利に進めてきたアルメニア側からすれば、納得できるようなものではなかった。そのため、アルメニアがナゴルノ・カラバフを占拠したままになっており、ナゴルノ・カラバフの帰属問題は未だに解決の目処は立っていない。 Wikipediaより
国境
グルジアのガイドさんはグルジアを出て、グルジアとアルメニアの間、
アルメニアのガイドさんはアルメニアを出て、アルメニアとグルジアの間、
そして私達もどちらの国にも属さないエリアにたっています。
今何かが起きたら、私たちはどちらの国に逃げ込んだ方が良いのかしら等と冗談?を言いながら手続きの順を待ちます。
紀元前1世紀ごろに国家を築き、紀元301年に世界で初めてキリスト教(アルメニア正教)を国教とした古い歴史を持つアルメニア。ペルシャやモンゴル、オスマントルコ、ロシアから長く過酷な支配を受けながら、1991年のソビエト連邦の解体によって共和国として独立。
アルメニアはカスピ海と黒海に挟まれた内陸にあります。商才に長けたアルメニア人は紀元前6世紀ごろ国境を越えた商業活動を活発に展開。紀元前1世紀には大アルメニア王国を築いて繁栄しました。キリスト教が布教したのはそのころからです。
しかし、内陸部という地理的な条件もあって、絶えず外部から侵略されました。アラブやモンゴルの侵攻が繰り返されて荒廃。そのため、多くのアルメニア人が異教徒の支配を受けたり、故国を捨てたり、あるいは抗戦して虐殺されたりするという悲惨な歴史を歩みました。エレバンには虐殺博物館があるほどです。
アルメニアのガイドさんはガヤネさんと言う初々しい可愛い女性。ちなみにガヤネさんの名前は
アルメニアではよく行われるように、聖女からとった名前だそうです。
日本とのアルメニアの時差は−5時間。グルジアとアルメニアは時差は有りません。
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バスは山道をデべト川沿いに丘陵地帯を進んでいきます。途中には小さな村々が点在しています。
旧ソ連の典型的な鉄筋コンクリート製のアパートが立ち並ぶ町がありました。
バスは緩やかな坂を上り続けています。両側にはしだいに荒々しい岩山が見えます。アルメニアは平均標高が1800mという山岳と高原の国。平地は国土の20%。耕地の少ない厳しい環境です。
さらに登っていくと目指す修道院です。
ハフパット修道院(世界遺産)
アルメニア最初の観光地、ハフパット修道院に到着しました。 修道院の建設が始まったのは
バグラトゥニ朝時代の10世紀後半。アショト3世によって進められました。11世紀から13世紀にかけて増築され、現在の姿になりました。「ウラルトゥ王国ハフパットの聖十字架」とも呼ばれ、最盛期には500人ほどの修道士がいたそうです。
小径を上ると、聖グレゴリア教会が姿を現しました。火山岩を切石にして積み上げた威厳に満ちた建物です。境内には図書館や鐘楼、僧院などの付属建物がほぼ完璧な状態で残ってます。
ハフパット修道院
中心となる聖十字架教会はHosrovanush女王とその2人の息子Gurgen とSmbatによって976年に建てられたそうです。
祭壇部分
アルメニアの教会は教会建築群のような、複合体となっています。
「ハフパット」とは強い壁と言う意味
院内にはフレスコ画が描かれ、石壁には修道僧が彫ったレリーフ、十字架の石碑(ハチュカル)が見られます。床には石棺が敷き詰めたように並んでいます。
図書館
本来図書館として使われた建物の床には直径30〜40cmの穴が並んだ部屋がありました。
異教徒に襲われた場合に備えて、貴重な図書を地下に隠したそうです。図書館と断定されたのは、周りの壁の窪みが書棚だと判明したからです。
ハチュカル
石に十字架を彫ったハチュカルもアルメニア独特のものです。十字架の周りの模様は二つと同じものはないそうです。
この後昼食、そしてセヴァン湖に向かいます。