コーカサスの旅   アルメニア

5月16日 7日目

アルメニア最後の日。今日はアルメニアの最高峰4092mのアラガツ山の山麓でお花の鑑賞。

大学で植物を専攻している学生さんも同行して説明してくださいます。

初めにアルメニア文字公園に立ち寄りました。
ここで最初のフラワーウォチィングをしました。

遠くから見た時 一瞬 お墓かと思いましたが、文字のモニュメントが建っています。
不思議な光景です。

アルメニア文字はメスロプ・マシュトツ大主教によって、404年に創られました。その頃の中東の文字はセム系の右から左へ書くのが主流でしたが、アルメニア文字は左から右に書きます。主にギリシア文字をもとにして作ったといわれています。当時、キリスト教に改宗したアルメニア人が、自分たちの言葉で聖書が読めるようにと考えたものです。
          

あたりにはいろいろな種類のお花が咲き乱れています。
          

          

ベロニカ,ホアリークロス、ブラッシカ、ムスカリなどを鑑賞。
お花の名前は伺いましたが残念なことにあまりに多かったので忘れてしまいました。
ともかく美しかったのです。
           

           

途中アパランで壺焼きパン屋さんにも立ち寄りました。焼き立てパンのお味は格別。
          

ロリ地方の山あいでバスを降り、再びプラムラ・べリス等の花の鑑賞。
                  オオカミではありません。人懐こいワンコです。
          

                           とても良い香り
          

ロリ地方のスピタク近くの道沿いでもバスを降り、レットポピーやブラッシカ・ラパ等を鑑賞しました。

                      目の覚めるような真っ赤なポピー
          

          

楽しい昼食
お食事中ずっと男性2人のクラリネット&キーボードの演奏がながれました。
楽しい歌も沢山披露してくださるので、お食事中でも一緒に口ずさんだり、体が動いてしまいます。
給仕してくださる方も途中からはステップを踏みながら入って来ます。

本家のグルジアでは機会がなかったのですが「百万本のバラ」も聴くことができました。
                    

          
                                 
100万本のバラ    100万本のバラの花を、あなたにあなたに あなたにあげる〜〜〜♪    
歌詞の内容はグルジアの画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づいています。ラトビアの作曲家が書いた曲に、ロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詞をつけた歌です。

恥かしがり屋な初々しいガイドさんだと思っていたガヤネさんが、音楽に合わせとても上手に踊ります。
          

実はガヤネさん今回がガイドとして初めての仕事だった様です。今まで緊張していたのですね。

有難う、ガヤネさん。さようならアルメニア

ここで日本でも有名な「100万本のバラ」  加藤登紀子さんの歌でお聴きください。
        
バスはこの後グルジアの国境に向かいます。

夕食はグルジアに入ってから中華料理を頂きます。ずっと同じようなお食事でしたので楽しみでです。

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今日美しい花々を鑑賞した場所はアルメニアのロリ地方。
ここは1988年に大地震が起きた所です。

アルメニア地震は、1988年12月7日にアルメニア共和国の北部にあたるロリ地方の一都市スピタクを震央として発生したマグニチュード(Ms)6.8、(Ml)7.2 の大地震が起きた所です。1988年アルメニア地震、スピタク地震などとも言います。
死者は約2万5000人。震央に近い地域の高層建築物はほとんど倒壊し、40万人を超える人が家を失いました。ギュムリでは数千人が死亡し、街が壊滅しました。地震発生時、震央から約90kmの地点にあるメツァモール原子力発電所は運転中でしたが、被害は受けず、その後も正常な運転を継続していました。この地震をきっかけに同原子力発電所は一時的に閉鎖されることになったのです。

世界で一番危険と言われている原発を稼働させなくてはならないアルメニアの事情

1988年に起きた地震の折、震源地から75キロメートルのメツァモール原発では、5.5の揺れを観測しました。震度6以上で自動停止するように設計されていたため、地震が起きても原発は正常に運転していました。地震による被害はなかったのですが、じつはその時スタッフはメツァモール原発から逃げてしまい、原子炉加熱の危機も生じていたのです。

2007年4月に、アルメニア政府は今後の原子力開発計画を発表し、操業停止中のメツァモール原発1号機の運転再開は行わないが、同原発2号機の運転を継続し、新規原子力発電所の建設を2012〜2013年までに最終的に決定するとしました。

こうして、メツァモール原発2号機は、2007年には25億5,000万kWhを発電し、総発電電力量に占める原子力発電のシェアは43%となったのです。アルメニアのエネルギー政策において、きわめて重要な位置を占めるようになっています。老朽化した原子炉一基に国家のエネルギーの半分近くを頼っているのです。

メツァモール原発は 近くには5つの断層があり、とくにそのうち3つの断層との距離は、500メートル、16キロメートル、34メートルとかなり近い上、ソ連が1970年代に開発した、第一次格納容器をもたない第一世代型の加圧水型原子炉であり、すべて、設計寿命を超えているのです。

ナゴルノ・カラバフアゼルバイジャンと問題を抱え、トルコともきわめて緊張した関係をもっているアルメニア
そのため、アルメニアは国境の約80%が閉鎖されている状態なのです。

アルメニアはエネルギー産出国の隣国アゼルバイジャンからエネルギーを輸入することもできず、自国に化石燃料をもたないアルメニアの電力確保は極めて困難です。

この様な状況の中 原発がないなかでのアルメニア人は極度の電力不足の状況を耐え抜きました。しかし、1991年末に旧ソ連から独立し、主権国家となったアルメニアは、ソ連の政策の縛りから解放されたことで、エネルギー不足深刻化の状況を、同発電所の運転再開と、場合によっては、新規発電所を建設するための西側諸国の資金および技術支援を要請しました。

アルメニア政府は1993年4月、正式にメツァモール原発2号機の運転再開の方針を決定し、米・ベクテル社、仏・フラマトム社、露・エネルゴアトム社などから技術支援を得て、1995年11月に運転を再開したのです。

美しい花々が咲き乱れる小さな国アルメニア。日本のような原発事故は決して起きてほしくないと思いながらアルメニアの国境を後にしました。