富岡製糸と碓氷めがね橋

このところ忙しい毎日を過ごしていた為、ブログの更新が出来ませんでした。

暫くこの状態は続きそうですが 少し時間が出来たので一昨々日「富岡製糸場と碓氷めがね橋」を見学する日帰りバスツアーに行ってきました。

富岡製糸場と絹産業遺産群」は世界遺産候補としてユネスコ世界遺産暫定一覧表に記載されています
世界遺産に登録される前に見ておこうと言う人が多く、旅行社に申し込みの電話をした時、希望する日は残席1つでした。運よくゲット。

行程
新宿―雲場池碓氷峠アプトの道(めがね橋)−おぎのや横川店−富岡製糸場―新宿

                  添乗員さんがバスに貼ってくれた地図
                このように書いて頂けると位置関係がよくわかります。
          
最初の立ち寄り場所は雲場池

この周辺の別荘地帯は軽井沢で私が最も好きな場所です。
バスでのお隣の席の方は和歌山県から参加された方でした。軽井沢は初めてということでした。折角でしたら池の散策だけよりは、ほんの少し足を延ばせば軽井沢の雰囲気を知っていただけたのですが、ツアーですと自由がきかないので残念に思いました。

この付近もあと数日後には、美しい紅葉がみられるでしょう。
                          

碓氷峠アプトの道
碓氷第三橋梁は、群馬県安中市松井田町にある鉄道橋です。「めがね橋」という名称で知られています。
碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋は、碓氷峠の代表的な建造物です。国鉄信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間アプト式鉄道時代に使われました。

1891年着工。高崎駅直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年に竣工しました。信越本線の電化を経て1963年に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用されました。全長91m、川底からの高さ31m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定されました。

現在は横川駅からこの橋までの旧線跡が遊歩道「アプトの道」になり、めがね橋に続く レンガのトンネル内を歩いて通り抜けできます。
          

          

トンネル内を少し歩いてみました。
          

          

          

お昼はおぎのや横川店のお弁当が配られました。
おぎのやは駅弁「峠の釜めし」で有名なお店です。
   
昼食後いよいよ富岡製糸場

富岡製糸場
                           見えてきました
          
関東地方北部に位置する群馬県域はわが国初の大規模工場として誕生した富岡製糸場はじめ、近代養蚕飼育法を確立した養蚕農家群、自然の冷気を利用して蚕種(繭の卵)を貯蔵した風穴などの絹産業遺産が良好な状態で遺されています。

富岡製糸場」は、明治政府が、生糸の輸出振興と品質向上のために建設することにした製糸場です。近代国家を目指す日本にとって殖産興業政策は急務だったのです・
明治政府が、工場建設の指導者として雇い入れた、フランス人のポール・ブリュナが、建設地を富岡に選んだ理由は
富岡付近は生糸を作るのに必要な繭が確保できる。
工場建設に必要な広い土地が用意できる。
町民の同意が得られたこと.
製糸に必要な水が確保できる.
燃料の石炭が近くの高崎・吉井で採れる。

明治5年(1872年)に日本で最初の官営模範器械製糸工場として建設された富岡製糸場の生糸の大量生産は、養蚕・製糸・織物にかかわる一連の絹産業を発展させ、群馬県域をわが国有数の絹産業の地にしました。その先進的な技術は国内各地に伝播され、さらに養蚕の技術革新が進み、原料繭の大量生産に成功しました。
戦後は、生糸生産のオートメーション化にも成功、自動繰糸機は全世界に輸出され、絹の大衆化に貢献したこと等も評価されています。

先進的なことはここで働く工女達の就業形態にも見られます。
「製糸業というと『ああ野麦峠』に代表される『女工哀史』の世界と思われがちですが、富岡製糸場はフランス人が指導したため1日の勤務時間や勤務条件等は、当時の日本では最も進んだヨーロッパ方式を取り入れていました。工女の給料は年功序列ではなく当初から能率給をとりいれ、年齢に関係なく製糸技術が優れていれば一等工女になれるというシステムでした。
かなり進んだ業務形態です。

しかし富岡製糸場が始まる時女工さんを募集したところ、人が集まらず、二回目の募集をかけましたが、やはり人が集まらなかったそうです。「あそこに行くと生き血を抜かれる」という噂があって、当時としてはかなりの高級で宿舎まであるのに不人気だったそうです。「生き血を抜かれる」という噂は、フランス人が飲むワインが生き血を飲んでいると勘違いされていたからだそうです。人が集まらない為、各県から若い女性を出すことになったのですが、知事さんの身内の女性が多かった為、最初の頃の女工さんはお嬢さんが多かったようです。

明治初期、富岡製糸工場で働いていた女工さんたちは、将来は各々の地方の製糸工場で指導技術伝習生として15から25歳位の娘さんが集められ、技術習得の後それぞれの地元で指導者として活躍できるための教育の場でもあったのです。特に信州武家出身の「横田英」は工女時代の回想録「富岡日記」を残し、当時の工場の様子を克明に記述し後世に記録として残しました。

その後官営工業の払い下げ令により、明治26年1893年)に三井家へ払い下げられ、この間日本で初めての洋式機械製糸場を前橋に作った速水堅曹が内務省に移り、2度、所長に就任、民営化されるまで操業を支えました。明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡り、昭和14年(1939年)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となり昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けました。

門の外には昔ながらの郵便ポストがありました。後方の建物は東繭倉庫で、現在この中には富岡製糸場の歴史などの展示と映像コーナーなどもがあります。
          

ボランティアのガイドさんが案内して下さいました。
          

東繭倉庫
まず入ってすぐの東繭倉庫の説明。
1階は事務所・作業場。二階は乾燥させた繭を貯蔵していたそうです。建物の構造は木材の骨組みの間に煉瓦を積み上げる構造です。きれいに配列された赤レンガは「フランス積み」でレンガの長手と小口が交互に積まれています。

操糸場
操糸場は繭から生糸を取る作業が行われていた場所です。
           
                     
広い建物の中に入ると柱のない空間が広がります。これは従来の日本にはない「トラスト構造」という建築工法だそうです。当時は電気がなかったので採光を取り入れるための多くのガラス窓がありました。屋根の上には蒸気抜きの越屋根が取り付けれています。当時はここにフランス式の繰糸器が300釜も並んでいたのだそうです。
          

女工
日本人工女に器機による糸取の技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居
          
診療所
当時のフランスでは、これほどの規模の工場には診療所があるのが普通だったので、そ れを富岡製糸場でも取り入れたそうです。
          

ブリュナ館
さらに奥に進むとブリュナ館があります。ブリュナというのは、この工場の指導者であったフランス人ポール・ブリュナの住居で、木造煉瓦造りで建てられ高床式の造りで地下室はチーズやワインなどの食糧庫として利用されていたようです。
フランスの技師は、その給与が当時の総理大臣800円に対して700円だったそうです。
ボランティアガイドさんが詳しく説明してくださいました。
           

ブリュナ館の奥には女工さんたちの寄宿舎があります。

          
ブリュナ館から敷地を奥に進むと、水源としての川が流れているのが見られます。そして、ここが高台に位置しているのを初めて認識できます。

          
西繭倉庫 
           
高い煙突が見えました。シルクは真っ白で汚れは厳禁です。石炭の煙で黒くならないようにと高くなったそうです。
                                                    
産業遺産として素晴らしい富岡製糸場
世界遺産に登録されることを願い、その素晴らしさを国内外問わず、観光客に伝える事が出来るようにするには もう少し見学できるエリアを広げてほしいなと思いました。

ボランティアガイドさんの丁寧で分かりやすい解説のおかげで、 140年前へのタイムスリップを楽しむことができた、爽やかな秋の1日でした。