イスラエルの旅 3日目 チィべリア(ガリラヤ湖畔)

3日目
昨夜大雨が降りました。早朝ホテル前の道は滝のように水が流れていましが朝食を終え観光に出かける頃には小雨になりました。
イスラエルは11月から3月迄雨期にあたりますが、それほど雨は多くないようです。
雨の少ないイスラエルでは恵みの雨なのです。
この雨季初めての雨ということで、ガイドさんは大喜びでした。

雨期のイスラエルでしたが、旅行中観光で歩くときは殆ど降られることはありませんでした。

3日目の行程はティベリア→べトシャン→ヤルデニット→ティベリア

ガリラヤ湖観光

カぺナウム
カペナウムは新約聖書に登場する、ガリラヤ湖の北西岸にある町です。

「慰めの村」を意味するカぺナウムはイエスの時代の少し前からエルサレム、アッコ―、ダマスカスを経てバビロンに通じる道の大切な中継点として繁栄していました。

エスは、洗礼者ヨハネが捕えられるとナザレを去り、ガリラヤのカペナウムに移り住み始めます。この地を拠点に12人の弟子と宣教活動を始めました。カぺナウムはイエスが説教をしたシナゴーグ跡とペテロの実家跡が残っています。

ペテロ像がありました。ペテロの足下にはセントピーターズフィッシュが置かれています。
          

カペナウムの遺跡の中央部に[ペテロの家の跡」とされている場所があります。
          

家の土台石の上に記念教会が建てられています。
          

カペナウムは現在は廃虚となっていて、遺跡とギリシァ正教の修道院があるのみです。
シナゴークの中に入ります。ローマ時代の床や石柱、鴨居が見られます。
                3〜4 世紀ごろのシナゴーグ
          

石柱には七枝の燭台や角笛、六芒星などが見事に浮き彫りにされています。
          

山上の垂訓教会
山上の垂訓教会はカペナウムの背後にある小高い丘の上にあります。イエスはこの丘の上から群衆に語りかけました。その記念の地に山上の垂訓教会は建っています。
          

          

山上の垂訓教会からはガリラヤ湖が一望できます。2000年前のイエスもここで、数百人の群衆に対して、ガリラヤ湖を眺めながら、8つの<幸いなるかな>を説いたのです。
無信仰な私です今回の旅は 当時の情景を想像しながらの旅になりました。
          

パンと魚の奇跡の教会
エスが2匹の魚と5つのパンを祝福して増やし、説教を聞きに集まっていた5000人を満腹にさせたという奇蹟にちなんで建てられた教会です。ここには350年にはすでに教会が建てられていました。6世紀に修復され現在はそれを土台にして造られた修道院があります。
          

祭壇は一段高くなっていて、白い石のテーブルが置かれています。
その下に魚を焼いた焦げ跡の残る岩がありました。まその前方にはイエスの奇跡を象徴する5つのパンと2匹の魚を表す有名なモザイク絵がありました。
          
教会内にあるモザイク床は、イスラエルに残る同種のモザイクの中でもすぐれたものの一つと言われています。当時のガリラヤ湖畔に生息していたと思われる動植物が生き生きと描かれています。
                      

聖ペテロの招会教会
ガリラヤ湖畔にひっそりと建っています。こじんまりとした教会ですが、教会のまわりに木が生い茂っていて、美しい光景です。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタイによる福音書第4章18〜20節)
これは後世初代ローマ教皇とみなされるペテロがまだ漁師だった時、イエス・キリストによって弟子にされた出来事を記しています。それはイエス・キリストガリラヤ地方で伝道を始められた頃のことでした。またイエス・キリストが伝道のために弟子たちとともにたびたびガリラヤ湖を渡ったことが聖書に記されています。

          

メンザ・クリスティ(キリストの食卓)
聖ペトロ招会教会(首位権教会)には「メンザ・クリスティ」−「キリストの食卓」と呼ばれる岩があります。復活後のイエスがペトロたち弟子に食事を与えたとされる岩です。復活したイエスがペトロたちと岩の周りで朝食をとったと言われてます。
          

教会の前には、「イエス使徒ペトロの銅像」がありました。ペテロに「私の羊を飼いなさい」とイエスに言われ、ペテロが一番弟子と認められたことから首位権の名があります。
          

古代の船の遺跡
ガリラヤ湖岸のキブツ(共同農場)・ギノサールの近くにあるイガル・アロン・センターという博物館に、1986年に発見された紀元一世紀頃(イエスの時代)の古代の木造船(漁師の舟)が展示されています。
          

1986年に発見さたこの舟は、全長9m、幅2.5m、高さ1.25mで、板材に主にレバノン杉が、肋材に樫が使われています。漁や湖上交通に用いられたのではないかということですが、イエスと弟子たちが利用した船もこんな船だったのでしょうか? 

舟が発見された場所は、ゲネサレとミグダルの中間地点でした。ゲネサレは、イエス・キリストの伝道活動の根拠地なので、「イエスの舟」の可能性があります。また、ミグダルは、「マグダラのマリア」の故郷ですが、紀元67年にはユダヤ人反乱の激戦地となり、戦いに使われた舟の可能性もあります。いずれの説にせよ、数十年から100年というかなり長い間使われた舟のようです。

炭素14による年代測定の結果、BC40年±80年、土器の調査結果からはBC50年からAD50年の間に作られたと推定されるとのことで、イエス様が生きていた時代と合致します。
          
舟は、キブツ・ギノサールで働いていた2人の兄弟によって発見されました。2人は、古代の遺物に興味があり、幼いころからガリラヤ湖の岸辺を散策しては木の破片とか釘とかを見つけ、いつか本物の舟を見つけたいと思っていたそうです。

1986年1月湖面が大変下がりました。水のひいた泥の中に、何かが顔をだしているのに気づいた2人は手で泥を掻き出してみると、舟の形が現われたので急いでヘブライ大学の考古学者に連絡したそうです。それは、完璧な形をした古代の舟だったので、大騒ぎになり、毎日学生や近所のボランティアが手伝いに来て注意深く掘り出したとのことです。その様子がビデオで上映されていました。

この舟の発掘は注意深く泥が掻き出されましたが、2000年の間、ガリラヤ湖の泥沼の中に埋まっていたので、乾いたところに出すとバラバラになってしまう危険があります。そこで、崩れてしまいそうな本体をファイバーグラスと発砲ウレタンで繭状に包んで水に浮かべました。岸辺には、舟がすっぽりと入る保護プールが用意され、舟は細心の注意のもとでゆっくりと吊り上げられて保護プールの中に入れられました。保存のために、舟を合成蝋を含むPEG液に浸し、木を補強し、歪曲と腐敗を防止しました。 その後、湿度の高い部屋に入て湿度をだんだん下げていき、最後に立派な博物館を作って保管しました。失敗して壊れないように大変な神経の使いようで、展示されるまでに14年かかったとのことです。

発見から14年後の2000年2月に、舟は保存水槽からイガル・アロン・センターの新展示ホールに移されました。

兄弟の長年の夢と執念、発見した後の的確な行動は今回の旅の中で私が最も感動した事柄です。まさに奇跡です。

ガラリヤ湖遊覧
エスは宣教活動を、ガリラヤ湖周辺の町々を中心に行っていましたので、湖を船で移動することも多かったのです。
あるとき、弟子たちと船に乗っていたとき、突然の嵐に船は翻弄され転覆の危機に直面します。
弟子であるペテロやヤコブなどは、元来がガリラヤ湖で魚を捕る漁師だったわけですから、
少々の嵐に慌てるはずも無いのですが、このときばかりはそんな弟子たちも恐れ慌てる程の嵐だったようです。ところがイエスは、泰然と眠っています。
「 主よ、主よ、嵐で船がしずみそうです! 」
恐れ、うろたえたペテロは、イエスをゆすり起こします。「 信仰薄き者よ、なぜ信じぬ 」
と言ってのっそりと起きたイエスは、湖に静まることを命じ、湖は何事も無かったように凪いだ・・・という奇跡物語です。

舟に乗り込むと雨が本降りになりました。この舟の遊覧は少々天候の悪いほうがイエスの奇跡物語に思いをはせるのには適していました。
          

          

          

昼食はイエスも食べたセント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペテロの魚)
楽しみにしていた昼食です。
ガリラヤ湖にはセントピーターフィッシュ(聖ペテロの魚)と呼ばれる魚がいます。
クロスズメダイの一種で、オスは稚魚を口の中で孵化させるのですが、稚魚が再び口に還ってこないように口の中に石をくわえる習性があるそうです。イエスの弟子ペテロによって釣り上げられた魚の口の中から銀貨が出てきた話にちなんで「聖ペテロの魚」と名付けられたそうです。「お醤油をかけて食べたらよりおいしいのに」という方もいらっしゃいました。でも、イスラエルは宗教的に食材に制限のある国なので、添乗員さん曰く「レストランにはお醤油などは持ち込まないで下さいね」

上手に油で揚げた聖ペテロの魚は白身の淡泊なお味でレモンをかけただけでもでとても美味でした。