イスラエルの旅  6日目  エルサレム

6日目の行程   エルサレム→エンボケック

イスラエルのこの時期の天気は私達日本人の感覚からは予想がしにくい変化をします。
現地の天気予報はさすが、今日は予報通り小雨が降っています。
昨日ガイドさんが予定を変更して歩くところを先にしてくださったのは大正解。

この時期は雨が降り出すと急に寒くなり、晴れてくると瞬く間に気温が上がります。
また地域によって、寒暖差もあります。
日本の気温とほぼ同じエルサレムですが、午後には温かいエンボケックに移動して死海に入るのです。

帰国したのは10日。エルサレムは11日夜から雪が降り始め、3日目に入ってもまだ降りやまず、積雪は、13日朝、深いところでは40センチ以上にも達したことを報道で知りました。
エルサレム市は、レスキュー隊を派遣して車で立ち往生の人々を救出したそうで、その数2000人(新聞によっては1400人)。救出にはイスラエル軍国境警備隊も協力しているということでした。イスラエルパレスチナでは史上最大級の降雪量を観測したそうです。数日遅かったら今回の観光は出来なかったかもしれません。

エルサレムの旧市街とその城壁群(1981年に世界遺産に登録)
エルサレムの旧市街地はユダヤ教キリスト教イスラーム、それぞれにとっての聖地であり、歴史を通してその領有権が争われてきました。
3つの宗教伝統が交差するこの地は、今もその帰属をめぐる問題が絶えないのです。

嘆きの壁
エルサレム旧市街は周囲がおよそ1キロ四方の城壁で囲まれています。現在の城壁は、16世紀前半にオスマントルコ帝国全盛時代のスレイマン1世(在位1520〜1566)によって建設されたものです。
現在、城壁には8つの門があります。そのうちの一つである嘆きの壁に行くには一番近い門 糞門から入りました。
                          
昨日シャバットで撮影ができなかった嘆きの壁。あれほど込んでいたのに今日は人影もまばらでした。

ここはかつてユダヤ教の神殿が建っていた所です。バビロンの捕囚より帰還した人々が建て、へデロ王が改修した神殿が、ローマのティトス将軍によって破壊されたのは70年。その時に部分的に残ったのが神殿を囲む西側の外壁です。これが嘆きの壁と言われています。
神殿の崩壊後、ユダヤ人は年に1度許可されている来訪の度、帰郷の夢を抱きつつここで
祈るようになったのです。

1948年からヨルダンの管理下になり、ユダヤ人はこの壁にも近づくことも出来なかったそうです。しかし、1967年6月7日の6日間戦争後は自由に祈ることが出来るようになりました。

壁の高さは21m。下から7段目までは、第2神殿時代の物。その上の4段がローマ時代につけたされた部分です。さらにその上にある小さな石はマムルーク時代の石だそうです。
          

中央にフェンスがあって、男女別々に祈ります。無信仰な人も男性は、壁の手前に置いてある箱から紙でできた帽子を取って、それをかぶらなければなりません。

熱心に祈っているユダヤ教正統派の姿。壁の石の隙間には人々の悲願を記した紙が挟まれています。この紙は毎年、春と秋の2回、収集されるそうです。紙は「百万単位」にのぼり、作業員は事前に体を清め、集めた紙は聖地を見下ろすオリーブ山の「特別な場所」に保管されるそうです。
          
私も前日に願い事を書いて置いた紙を差し込んで祈ってきました。                              
          
帰るときは女性は壁を向いたたまま戻る人が多かったので、私も後ろ向きのまま
入口まで迄戻りました。
          
神殿の丘
神殿の丘には嘆きの壁の女性側近くの入口から入ります。神殿の丘には、いつでも自由に入れるわけではないのです。ですのでとても込んでいます。時間は限られていて、しかも入場するにはイスラエル軍のチェックがあります。実は嘆きの壁の見学は、並んでいる間に交代で観に行ったのです。

アル・アクサー・モスク
神殿の丘に上がると、アル・アクサー・モスクが目の前にあります。ただ、残念なことはモスクの中には入れないということです
          

岩のドーム
691年にカリフ・アブドュル・マリクが建てた。預言者ムハンマドマホメット)が、天使を従え天馬に乗って昇天したといわれている巨大な聖岩を守るために建てられたので「岩のドーム」と呼ばれています。ユダヤ教徒は、ここをアブラハムが子イサクを神に捧げようとしたモリヤの丘だとしています。内部の岩は、世界が創造されたときの「基礎石」とされ、エルサレムの中心、すなわち世界の中心としています。新約聖書では、イエスが十字架上で息を引き取ったとき、この場所にあった神殿の至聖所の垂れ幕が真二つに裂けたと言われています。ドームが現在のような金メッキのアルミ板になったのは1964年のことです。2006年5月現在、岩のドームとエルアクサ・モスクには、イスラム教徒以外の一般観光客は入ることができません。
間近から見る岩のドームは圧巻です。
          

          
聖墳墓教会
聖墳墓教会の中で昨日 中に入らなっかたキリストの墓にも入りました。
          

          

          
エスの墓とされる聖堂は、聖墳墓教会で最も神聖な聖地です。大ドームの真下にある聖堂は、イエスが葬られた洞窟墓の上に建っています。

昨日も大勢の信者たちが墓室内に入ろうと列をなしていましたが、今日も聖職者の指示で数人ずつ中に入ります。洞窟を模した狭い墓室には、両手を広げたイエス・キリスト像を中心に祭壇が設けられ、人々は敬虔な祈りを捧げていました。
                

ダビデの塔(博物館)
紀元前20年にヘロデ王がここエルサレムを防備するために建てたものです。
現在は歴史博物館として利用されています。
カナン時代、第1神殿時代、エルサレム帰還から第2神殿時代、後期ローマからビザンツ時代、初期イスラムから十字軍時代、アイユーブ朝時代、オスマン期末期から英国統一時代まで、紀元前の聖書の時代から20世紀の第一次世界大戦までの4000年に渡る歴史がまとめられています。
          
展望台からはダビデの塔の全景を眺めることができます。
          
展望台からは360度エルサレムの風景を見渡すことができました。
                      

マリア永眠教会
昨日中に入らなかったマリア永眠教会の中を見学しました。教会の地下には、桜の木と象牙で作られた永眠するマリアの像が横わっていました。美しいお姿です。
                         
          


シオン門はエルサレム旧市街城壁の一番南側にある門です。この後訪れる「ダビデの墓」に近いことから「ダビデ門」とも呼ばれています。旧市街のユダヤ人地区に近いことから「ユダヤ人地区ゲットー」とも呼ばれるようです。

イスラエルには徴兵制があります。18歳になると、男子は3年間、女子は訳2年間兵役に就かなければなりません。 ただし、イスラエル国内のアラブ人(イスラエル人口の約20パーセントを占めている)は兵役に就くことはできません。

            シオン門近くのたくさんのイスラエル兵楽しそうに話していました。
          

          

最後の晩餐の部屋
エスが弟子たちと最後の晩餐をしたといわれる部屋です。また、この部屋は、イエスが死んで五旬節目の日に弟子たちに聖霊が降りた「ペンテコステの部屋」とも呼ばれています。現在の建物は十字軍が建てたものです。
最後の晩餐の部屋には何にもありませんでした。最後の晩餐と言えば、レオナルド・ダ・ビンチの絵画を思い出しますが、あの光景はレオナルド・ダ・ビンチの想像の物だったのです。イエスの時代には絵のようにテーブルの前で椅子に座って食事を頂くというようなことはなかったようです。
          

ダビデの墓
最後の晩餐の部屋と同じ建物の1階がダビデの墓とされています。出入り口は男女別々に区切られていて、柩の半分ずつを見ることになります。刺繍で飾られたビロードの覆いを掛けた“ダビデの柩”が置かれていますが、柩の上にはモーゼ五書を納めた銀製の容器が安置され、ここが聖なる場所であることを示しています。

ダビデイスラエル建国の父ともいえる人物です。古代イスラエル2代目の王(在位BC1000〜BC961頃)です。ダビデ王の時にエルサレムを征服し、イスラエルの首都としました。
          
私達のツアーだけでしたのでそっと、仕切りの上から写真を写してみました。
          

イスラエル博物館
死海写本館
死海写本が納められている建物の屋根は、旧約聖書の巻物が入っていた壷のフタの形をしています。
          
ここには死海西岸のクムランで発見された旧約聖書の原本が保存・展示されています。ここは館内撮影禁止でした。
1947年、死海の北西岸、「クムラン」と呼ばれる地域でベドウィンの羊飼いの少年が、逃げた羊を捜していました。
羊飼いは、羊の姿を追って洞窟を一つ一つ覗いて行きました。ある洞窟で不思議な物を発見します。それは、高さ60センチほどの壷でした。数は10個。中を検めてみると、奇妙な文字の書かれた多数の巻物が出てきました。ところどころちぎれ、相当古い物のようでしたが、埃を払って良く見ると、記された文字は、鮮明でした。
少年はそれらを持ち帰り古物商に売りました。これが、今世紀最大の発見と称される『死海文書』です。巻物は、同じ年の3月にエルサレムの聖マルコ修道院大主教アタナシウス・イェシュア・サミュエリの手に渡りました。

巻物を一目見て、大主教は我が目を疑いました。そこに書かれていたのは、2000年も前に死語になった古代ヘブライ語だったのです。 彼は、様々な専門家にこの巻物を見せました。その相談に乗った一人が、ヘブライ大学教授、エレアザル・スケーニクでした。彼の鑑定によりこの巻物の全貌が明らかになったのです。

第2神殿時代の模型
実際の50分の1の大きさに縮小された第2神殿時代(紀元前538年〜紀元後70年)の
エルサレムが精巧な模型で再現されていました。
考古学者のアビ・ヨナ教授が自分の専門としている第2神殿時代をリアルに仕上げたものです。
             模型に利用されたのは実際と同じエルサレムの石を使っています。
                            驚くほど精密です。
           

           

これから昼食をいただいた後 エン・ボケックに向かいます。