イスラエルの旅 7日目 マサダ
いよいよ今日でイスラエルともお別れです。
7日目の行程 マサダ→クムラン→エリコ→テルアビブ
マサダ
エンボケックのホテルから約18キロメートルのところにマサダ遺跡があります。
マサダはユダヤ戦争におけるユダヤ人の集団自決で知られ、2001年にユネスコの世界遺産に登録されています。
ユダヤ砂漠の東の果て、死海の西のほとりにそびえる岩山の要塞、世界遺産「マサダ」はユダヤの人々にとってエルサレムにも匹敵する有名な場所です。
ローマ帝国に支配されていたユダヤの人々が反乱を起こした「ユダヤ戦争(66〜70年)」。ローマ軍によって
エルサレムが陥落した後、ユダヤ反乱軍の人々が立てこもったのが、要塞マサダでした。砂漠に孤立したこの場所で、人々は3年に及ぶ、籠城戦を繰り広げます。敗北が決定的となったとき反乱軍が選択したのは、集団自決という道でした。
歴史的経緯から現在でもなお多くのユダヤ人にとって特別な思い入れのある場所であり、ユダヤ人全滅の悲劇を再び繰り返してはならないという決意から、イスラエル国防軍の入隊式がマサダ頂上で行われ、国家への忠誠を誓います。
マサダは、イスラエル国内でエルサレムに次ぐ人気の観光地となっており、観光用のロープウェイが整備されています。
人間は飲み水が必要ですが、マサダから一番近い水源は18キロ北にあるオアシスです。
毎日離れた場所からの水の確保するのは大変です。今ではロープウェイで数分で頂上に達しますが、昔は、死海側の急峻な斜面に細い路(蛇の路、約3㎞)があっただけです。
特に2000年前の戦いの渦中はなおさらのこと。
緊急時の避難所としてマサダを要塞化するにあたり、ユダヤの王ヘロデは水の確保に水利システムの構築をしました。マサダにダムや水路を築いて、まれに雨が降ったときに起きる鉄砲水を引き入れ、十数の貯水槽を満たし、自分と家族、使用人たち、兵士たちが数年にわたって滞在するのに充分な水を確保したのです
又へデロ王は飲み水だけではなく、砂漠の中でも、王としての生活を送るため、要塞マサダにサウナや大浴場、スイミングプールまでも完備させたのです。
貯水槽
山上はかなり広い平地で、住居跡や大浴場、倉庫、貯水槽、シナゴーグ納骨塔などの跡が見られます。また死海側に突き出た断崖には三段のテラスが設けられ、そこに宮殿が造られています。
三段テラスの模型がある場所で説明を聞いてから・・・・・・
実際の場所を見学します。
三段テラスの下から
浴場
いくつかの建物の内側にはフレスコ画が少しだけ残っていました。
下の断崖絶壁を見てわかりますが、マサダは難攻不落の要塞と言われたそうです。
このようなマサダをローマ軍はどうやって攻略したのか不思議でしたが、石を積んで坂道を作って進撃したそうです。
地上絵のような四角形が下界に見えます。
これはマサダを包囲したローマ軍の宿営地の跡です。このような場所が何ヶ所かありました。
第一次ユダヤ戦争におけるエルサレム陥落後、ユダヤ戦争の仕掛け人でもある熱心党の一団がここに立てこもり、一万人ともいわれる圧倒的なローマ軍を相手に3年にわたって孤軍奮闘の末、967人全員が集団自決しました。
そのとき、指揮者ベン・ヤイルは、『高邁なる友よ、われわれはずっと以前に、決してローマ人の召使いにも、また唯一の真にして義である神以外の何人の召使いにもならないと決心した。それ故、今こそ、この決意を実行に移すべき時がきた。・・・糧食の他は何も残さずおこう。何故なら、われわれが必需品の欠乏で敗れたのでなく、最初からの決意によって、奴隷よりも死を選んだことを証してくれるのだから』と呼びかけたという(ヨセフス「ユダヤ戦記」)。
ヨセフスによれば、生き残ったのは、たまたま水汲みに行っていた2人の女性と5人の子供だけだったといいます。
ただ、集団自決とはいうものの、実際に自決したのはベン・ヤイルのみで、他は他人による刺殺であると説明してくださいました。ユダヤ教では、神から与えられた命を自ら絶つことは許されざる罪であり、他人を殺すことも同じなのです。兵士たちはまず自分の家族を殺し、次ぎに籤で選ばれた10人が他の兵士を殺し、ベン・ヤイルがその10人を殺し、最後に自決したといいます。そのときベン・ヤイルは、他者を殺した兵士たちの罪はすべて自分が被る、と兵士たちの罪についての神の許しを請うたといいます。
ここが1948年に「イスラエル共和国」として独立宣言するまでの、国を無くしたユダヤ人の2000年の離散の歴史のが始まった場所なのだと、 感慨もひとしおに景色を眺めていました。