ラオスの旅  シェンクワン ジャール平原→ルアンパバー

7日目
今日は今回の旅で最も楽しみにしているジャール平原に行きます。

シェンクワンは、1960年代半ばから始まったラオス内戦の激戦地ともなった場所で、現政権の基礎を築いたネオ・ラーオ・ハク・サート(パテート・ラーオ)軍を攻撃する為にアメリカ軍が投下した爆弾は1964年〜1973年の間、平均すると8分ごとにアメリカ軍から爆撃を受けたほどで、その数は、世界で一番被弾した場所だそうです。住民は、ビエンチャン南部とベトナムとの2か所にある非難キャンプに避難民として逃げていたそうですが、実際にこの地で一体何人亡くなったかも不明のままなのだそう。

7時半 ホテルを出発。ポーンサワン・マーケットの見学です。
主にモン族の人々が出店している街最大の市場です。
ラオスの市場はどこも早朝から開かれます。
他の市場では見られない物も売られていました。
       

       
大きなモグラも売っています。モン族の人が好んで食べる高級品だそうです。
この街名産の発酵させたツバメの丸焼きも売っていました。
       
                  
       
エビや魚を発酵させた調味料も沢山売っています。
       

       

       

       
9時少し前にジャール高原に到着。
ジャール平原
草むらに覆われた平原には、先史時代の巨石文化といわれる石の壺が至る所にありました。1931年ここを発見したフランス人の考古学者コラニーは、ジャール平原「壺の平原」となずけました。ジャール平原の石壺は、いったい誰が、何のために、どうやって作ったのか、未だにはっきりしたことがわかっていない謎の遺跡です。人骨やガラス玉などの出土品から考えると、石壺は棺桶として使用されたという石棺説が有力視されていますが、他にも酒壺説、米壺説などの説もあります。

途中まで電気カートで移動して、石壺が散在する場所に。
石壷の集中する場所ごとに「サイト1.2.3‥」とナンバーがつけられています。サイトの数そのものは20箇所余りあるそうですが、旅行者が訪れるのは1-3のみです。
今回は一番大きな壺があるサイト1に行きます。1サイトででは334個の石壺が発見されています。
       

       
写真の石に刻まれた「MAG」(Mines Advisory Groups)とは地雷等処理の国際NGOの組織です。この標識がある場所は「不発弾がないことを確認済み」ということになるわけです。それより内側を歩くようにと言う意味です。

「空からの地雷」と言われるクラスター爆弾アメリカが世界で初めてラオスで実践使用したものです。投下されると上空約2000メートル上空で炸裂し、中から約350個の小さな爆弾が飛び散り広範囲に渡って被害を与えます。投下された約3割の約900万個が不発弾として残ったそうです。

MAGやUXOという組織が爆弾除去を行っているものの、1973年の停戦から現在までで約6000人が死亡しました。
ガイドのティーヤイさんのお兄様もこの不発爆弾処理会社に勤務していて亡くなったそうです。

この辺りは田畑が広がり、水牛が草を食んでいる のどかな風景が広がりますが、今でも農作業をしている人などが年間約300人ずつ不発弾の為に死傷しています。

道を進んで行くとクレーターが見えました。これはクラスター爆弾が落とされた跡です。
       
クレーターは至る所にあります。
       
最大の石壺は 高さは3.25メートル、直径3メートル、重さ約6トン
       

       

       

       

       
           
石壺群のそばには洞窟がありました。洞窟の入口には小さな祠が立ててあり、中は広く上部に煙を逃がす穴が3つありました。
アメリカ軍に見つからないいように、洞窟の中で亡くなった人を火葬したそうです。
       

       

       
見学後入口の博物館で戦争の資料の展示を見ました。ここでは処理した不発弾の殻を再利用して作ったスプーンやキーホルダーを売っていました。ラオスが受けた空爆の事実を忘れないようにお土産にキーホルダーを2つ(1つ10000キープ約140円)で購入。
         
       
シェンクワンを後にし、再びバスで大移動です。今日の移動距離は約260㎞。

昼食はとてもローカルな食堂「PHONE SAVANH」でお米の麺(ウドンに似た太麺カオピャンセン)を頂きました
                 
14時  カム族の村(パーケンノイ村)に立ち寄りました。
       
カム族の家は高床式です。
       
村ではたまたま結婚披露宴を行っていました。

私達が覗くと「どうぞどうぞ」と招き入れようとします。
おまけにお酒も飲め飲めと勧めて下さいます。
一間の小さな家は満員。ストローのようなもので瓶からラオ・ラーオを飲んでいます。
       
外でも宴会をやっていました。結婚式があると村中が仕事を休み祝うそうです。
       
「結婚式を見て下さって有難う。楽しい旅を続けて下さい」と、村長さんがバスのお見送りまでしてくださいました。心温まります。
       
17時30分 長い移動を終えルアンパバーンの宿泊するホテル「ル・パレー・ジュリアナ」に到着。
(このホテルは明日も連泊)
       

       
夕食はホテル近くのフランス植民地時代のスタイルを踏襲するコロニアル建築のレストラン「エレファント」で
ラオス風フランス料理を頂きました。