キューバの旅  ハバナへ

1日目羽田発のエアカナダにて約12時間のフライトの後カナダのトロントに。
トロントで航空機を乗り継ぎ約3時間30分のフライトの後キューバの首都ハバナへ。

羽田 トロント間のエアカナダのビジネスクラスの座席はシートが斜めに配列されています。
       
                 温めてあるナッツとドリンク
                 
ドリンクサービスのあとは、お食事です。
評判通り?のお味でしたが、帰りの便は美味しかったです。
   
宿泊のホテル メモリーズ ミラマールに着いた時には日付が変わっていました。
(日本とキューバの時差はマイナス13時間)
        

明日からいよいよキューバの観光が始まります。
その前に少しだけキューバの歴史に触れたいと思います。
西インド諸島最大の島。コロンブスが到達以来、スペイン領となります。その植民地支配の砂糖とタバコのプランテーション経営のもとでインディオは減少、黒人奴隷が導入されます。19世紀末に独立運動が活発化するとアメリカが介入、1902年に独立を達成したが事実上のアメリカによる支配が続きました。1959年、親米バチスタ政権がカストロの指導する革命で倒され、社会主義国に。米ソ冷戦下の1962年にはキューバ危機が起こり、戦争は回避されたがアメリカによる経済封鎖は2015年まで続きました。
もう少し詳しくアメリカとの関係から見たキューバの歴史
1492年 コロンブスキューバを発見
1511年 スペインに征服される
中南米諸国の人種は、通常 先住民、スペインからの植民者、アフリカからの奴隷との3つの人種が混ざり合っていますが、キューバでは先住民がスペイン人による強制労働や、ヨーロッパからもたらされた病気に耐性をもっていなかった為絶滅してしまいます。その為スペイン系、アフリカ系との混血だけが存在しています。
スペインに征服された後キューバは、先住民の悲劇とは別に、スペインと中南米の貿易の中継地点として発展しました。
1868年 第一次独立戦争
1868年から1878年にかけてキューバにて行われた独立戦争。十年戦争とも呼ばれています。1868年10月10日に砂糖工場所有者のカルロス・マヌエル・デ・セスペデスは行動を開始し、スペイン帝国からの独立を宣言しました。
1895年 第二次独立戦争
第二次キューバ独立戦争は、1895年から1898年にかけてキューバにて行われた独立戦争です。単にキューバ独立戦争と呼ばれる事も多い。1895年2月24日にスペイン帝国からの独立のための最後の戦いは開始されました。1898年4月25日にアメリカ合衆国が介入して米西戦争に発展。同年8月12日にスペインは降伏文書に調印し、交戦状態は終結に向かいました。12月10日にパリ条約が締結され、キューバの独立が承認されました。
第二次戦争を指揮したホセ・マルティはその後「独立の父」と呼ばれ、今も街の至る所に銅像が残っています。
1902年 キューバ共和国独立
1903年 グアンタナモ湾を租借
400年に及んだスペインからの支配から解放され、独立を達成したキューバですが、実際はアメリカによる支配に変わっただけでした。
1952年 バティスタによるクーデター
1940年に大統領に就任したバティスタは亡命してフロリダでカジノを経営していましたが、1948年に再度の大統領出馬したとき支持を得られなかったことからクーデターをおこし政権を奪取、独裁政治を開始。これによりアメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権、アメリカ政府・アメリカ企業・アメリカのマフィアが経営するカジノが富を独占・アメリカ本土に流れる体制が確立されました。
1953年 フィデル・カストロが蜂起しましたが失敗
このような反植民地状態の転換を目指し、弁護士フィデル・カストロが同士を率いてモンカダ兵営を襲撃するも失敗。懲役15年を宣告され投獄されます。
1955年 フィデル出獄、亡命
バティスタの大統領就任につきフィデルは恩赦を受け、メキシコへ亡命します。そしてメキシコの地で、チェ・ゲバラと運命の出会いを果たします。
1956年 フィデルキューバに上陸、ゲリラ戦を開始
総勢82人の軍団でグランマ号というヨットに乗ってキューバに上陸。上陸の際に激しい空爆を受け、18人しか上陸を果たせませんでしたが、シエラ・マエストラと呼ばれる山脈に逃げ込み、農民を仲間に引き込んでのゲリラ作戦を展開していきます。この18人の中に、フィデル、弟ラウル、そしてチェ・ゲバラが含まれています。
1959年 革命政権樹立
フィデル・カストロが主導した「7月26日革命運動」は1953年7月26日に政府軍のモンカダ兵営を襲撃して武装闘争を開始し、バチスタ独裁政権を打倒、59年1月に革命政権を樹立しました。
1959年 フィデルアメリカ訪問
1960年 ソ連と外交関係樹立
1961年 ピッグス湾事件
1961年 社会主義を宣言
1962年 経済封鎖
アメリカのマフィアに牛耳られていた経済を変革するため、フィデルアメリカ企業の資産没収・国有化を行いました。この動きを警戒したアメリカとは関係が日増しに悪化。フィデルアメリカを訪問しましたが、当時の大統領アイゼンハウアー大統領は「ゴルフのため」として面会しませんでした。当初は共産主義者ではなかったフィデルですが、この関係悪化を見てソ連との関係強化を決断します。1961年にはピッグス湾事件(アメリカCIAが亡命キューバ人部隊を率いてキューバ空爆を行った事件)が起こりますがキューバ軍はこれを撃退。直後、キューバ社会主義を宣言します。翌年、アメリカはキューバとの輸出入を全面禁止、経済封鎖を開始。ここから長年に渡るアメリカ・キューバの敵対関係が始まり、カストロ暗殺の試みは数百回に及んだと言われています。
1962年 キューバ危機
アメリカからの脅威に対抗するため、キューバソ連の提案を受け、キューバに極秘裏に核ミサイルの設置を開始します。しかしアメリカがこれを発見、アメリカ・ソ連双方が核ミサイルを発射準備態勢に置く非常事態となります。最終的にはギリギリのところでミサイル撤去が決められたものの、この同意が米ソの間だけで一方的に決められた事にフィデルは大激怒したそうです。
1965年 チェ・ゲバラキューバを離れる
1967年 チェ・ゲバラボリビアで戦死
上陸作戦からフィデルとともに戦い、革命樹立後は国立銀行総裁、工業大臣を努めてきましたが、他の国の革命闘争を助けるためキューバを離れます。アフリカ各地を周るが成功することはできず、1967年にボリビアの村で捕えられ射殺されました。現在遺骨はキューバに埋葬されています。
1966年 キューバ人調整法(Cuban Adjustment Act)発効
アメリカ国内に2年間(のちに1年間に変更)滞在したキューバ人にはアメリカ永住権を与えるとする法律です。亡命を考えるキューバ人にとっては、アメリカ合衆国にたどり着きさえすればアメリカ政府から護られるという、他国の移民者にはない「特権」があり、アメリカがキューバ人の亡命を助長するために設定した法律です。年間万単位のキューバ人がこの庇護を求めてアメリカに亡命しています。
2014年12月のオバマ大統領の発表以来、雪解けと相まってこの法律が無効となる噂がながれ、「特権」がなくなることを懸念したキューバ人の間で「亡命ラッシュ」がおこり、海上で発見・キューバに送還される件数が急増しています。
1976年 クバーナ航空爆破事件
亡命キューバ人でCIA工作員のルイス・ポサーダ・カリレスが、クバーナ航空の飛行機に爆弾を仕掛けて爆破し、乗客・乗務員78人全員が死亡した事件。中米カリブ選手権で金メダルを獲得したフェンシングのキューバ代表24人も乗っていました。ちなみにルイス・ポサーダはその後もたびたび爆破事件やフィデル殺害計画に関わっているもののたびたび無罪判決や恩赦を受け、今も家族とフロリダで生活しています。
1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
“利益代表部”とは、大使館の代わりの役割を果たす事務所のことです(国交がないため大使館はない)。現在この利益代表部にはアメリカ人50人以上、キューバ人100人以上が働いており、大使館設置の際にはこの事務所がそのまま大使館に変わります。
1980年 マリエル難民事件
両政府が合意し、12万5千人のキューバ人が合法的にアメリカに亡命した出来事です。うち2万人は犯罪者・精神障害者だったとされます。キューバとしては、大量の亡命者がいることを世間に公表することはキューバの内情を物語ってしまうリスクがあった反面、反革命分子や犯罪者を国内から駆除するガス抜き効果があったようです(結果、マイアミは全米最悪の街とも言われるように…)。
1982年 テロ支援国家に指定
アメリカはキューバを「アメリカを脅かすテロリストを支援している国」のリストに追加。
この指定は、2015年4月14日、オバマ大統領によって解除する方針が決定されました。
1985年 ラジオ・マルティ開始
米政府による、キューバ政府にとって都合の悪いことを放送するラジオ番組です。90年にはテレビ・マルティも開始。キューバ政府は電波妨害により島内での視聴を不可能にしています。
1991年 ソ連崩壊
ソ連から多額の援助を受けていたキューバは大打撃を受けました。この90年代の経済危機の時期は平和時の非常時と呼ばれ、街には車がほとんど走らず、国民は食べるのにも困ったそうです。今でも残る爪痕として、当時ソ連の援助で国土を横断する高速道路を敷いていたのですが、この建設途中でソ連が崩壊、セメントの供給がストップしたため、建設は中断。今でも国中部〜東部の途中で高速道路は終わり、幹線道路となっています。
またこの非常期間中、苦しい生活に耐えきれず亡命する人が再び急増。いかだに乗ってアメリカを目指す人々が後を絶たなかったそうです。現在でも亡命する人は多く、海上で捕まると2度目は投獄されるそうです。
フィデルは解決策として観光業を解禁。
1992年 トリチェリ法成立
正式にはキューバ民主主義法。アメリカ企業のキューバとの取引の禁止、キューバ渡航したアメリカ人への刑罰、キューバ人亡命者によるキューバへの送金の禁止を定めるアメリカ国内の法律です。
1995年キューバ人調整法発効
キューバ人調整法の追加ルールとして、亡命を試みるキューバ人がアメリカ合衆国に「足をつけたらアメリカ政府はそのキューバ人を庇護、「海上で捕捉されたら」キューバに送還される、と定めた法律です。亡命者にとって、文字通り「上陸」が運命の別れ目となりました。
1996年 ヘルムズ=バートン法成立
トリチェリ法(キューバ民主主義法)をより強化する内容。どちらも国連総会などで国際的に非難を浴びている法律です。このようにアメリカのキューバ制裁は「法律」で定められてしまっているので、法律の改正には議会の承認を伴い、大統領権限を持ってしても簡単には変える事ができません。
2000年 アメリカからの食料の輸入開始
“人道的観点から”という理由で食料は販売することに。現在、キューバの食料輸入先一位がアメリカです。経済封鎖、反米、といいながら不思議なことです。
2008年 フィデル引退を発表、弟ラウルが総帥に
病気の為2008年、フィデルは正式に国家評議会議長の座を弟のラウルに引き継ぎました。
この時フィデルは82歳、ラウルは77歳です。
ラウルは政権を取ると規制緩和を打ち出しました。ホテル宿泊、自営業の一部許可など経済の脱国営化を進めます。近年では、商業面で家や自動車の売買解禁、政治面で出国ビザの取りやめ、スポーツ選手の海外移籍の解禁など。
2009年 バラク・オバマ米大統領に当選
ブッシュ政権時代に強化された対キューバ制裁を緩和。アメリカに100万人以上いると言われるキューバアメリカ人(亡命キューバ人とその子孫)のキューバ訪問や送金、電話・郵便の使用などに関して制限を緩和しました。
2013年 バラク・オバマ米大統領に再選
2014年 オバマ・ラウル両首脳、国交正常化を発表
2014年12月17日は、歴史的な一日となりました。水面下では、18ヶ月におよぶ交渉、ローマ法王やカナダ政府による仲介があったようです。
2015年 両首脳が会談
2015年5月29日にオバマ政権はキューバの「テロ支援国家」指定を解除すると正式に発表しました。
2015年7月20日アメリカとキューバ相互に大使館が再び開設され、1961年に断交して以来54年ぶりに国交の正常化が実現しました。
2016年3月20日バラク・オバマは現職の合衆国大統領としては1928年のカルビン・クーリッジ以来88年ぶりにキューバを訪問。