バルカン半島の旅  ボスニア・ヘルツェゴビナ       ヴィシェグラード

3日目 後編
国境を通過し、セルビアから今回の旅2番目の訪問国ボスニア・ヘルツェゴビナに入ります。

バスはこの国最初の見学地ヴィシェグラードの街へ向かいます。

谷間を流れる川はドリナ川の支流、西に流れてヴィシェグラードでドリナ川に合流します。

ボスニア・ヘルツェゴビナ  首都サラエボ
人口は約4百万人。二つの国の連邦国家でボシュ二ャク人(イスラム教)とクロアチア人(カトリック)とが主体のボスニア・へルツェゴビナ連邦と、セルビア人(正教会)主体のスルプスカ共和国とからなり、各々の行政府を有しますが、2005年に軍隊は統合済みです。ボスニアヘルツェゴビナは成り立ちが異なりますが、14世紀前半にボスニア王国にヘルツェゴビナが併合されて以降、強国の支配時も一体としての運命をたどって来ました。旧ユーゴ(セルビア主導)を脱してボスニア・ヘルツェゴビナが1992年に独立する時に、国内のボシュニャク人(当時の人口比率44%)と、クロアチア人(17%)の推進派に対し、セルビア人(33%)が反対して独自民族国家を樹立。双方による悲惨な内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)は、支社20万人、難民200万人を出しまししたが、1995年に国連の調停で和解が成立しました。

ヴィシェグラードボスニア・ヘルツェゴビナの東部、ドリナ川の右岸にある街で、人口約2万人。地理的な特徴から戦略的・経済的にも重要地として認識され、オスマン帝国時代は、サラエボイスタンブールを結ぶルート上にある為メフメット・パシャ・ソコルヴィッチ橋が築かれました。ボスニア・ヘルツェゴビナが旧ユーゴからの独立宣言したために起きたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年〜1995年)では、この街を掌握したセリビア人指導者が街の人口の63%を占めるムスリム人(15〜19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔)の抹消策を進め、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔)の抹消策を進め、女性・子供を含む3千人超えを虐殺しました。(ヴィシェグラードの虐殺)

ソコルル・メフメト・パシャ橋橋は1577年オスマン帝国の大宰相であったソコルル・メフメト・パシャの名により、宮廷建築家だったミマール・スィナンが手がけました。長さは179m幅約6m、11の石組みのアーチから成っており、当時のオスマン帝国の建築水準の高さを例証する産業遺産として2007年に「ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋」としてユネスコ世界遺産に登録されています。
橋は第一次大戦で3つの破壊されたほか、第二次世界大戦では5つの損傷を受けました。
又1992年に発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ではこの町がセルビアのウジツェとサラエボを結ぶ幹線道路に位置していたことから、ユーゴスラビア人民軍の砲撃にあい、挙句の果てに婦女子3000人以上がこの橋から突き落とされて亡くなるという「ヴィシェグラードの虐殺」と呼ばれる場所となりました。

橋は現在では原型通りの美しいアーチに再建されています。
        
メフメット・パシャ・ソコルメフメット・パシャ(1506〜1579年)
オスマントルコの大宰相で、ドリナの橋の建設を命じました。
ヴィシェグラードの近郊のソコロヴィ村の出身。10歳の時にオスマン帝国による少年狩で捕獲され、まだ橋のないドリナ川を渡河、イスタンブールに連行、軍人としての訓練を受けました。キリスト教からイスラム教に改宗させられ、その後スレイマン大帝付きの近衛兵となって昇進を重ねました。この地に戻ってきたときに川を渡る住民が難渋しているを見て橋を架けることを命じたとわれています。

橋は、オスマン=トルコ長の天才宮廷建築家、ミマール・スィナンによって16世紀末に建てられました。
        
橋の上から眺めた風景
        
考えられた橋脚
橋桁は樫の木の杭が打ち込まれ、その周りを石で固めているために橋桁が流されません。又水の流れを考慮して、上流側の橋脚はシャープエッジ構造で造られており、右側の下流側の橋脚は丸みを帯びています。船の舳先と船尾と同じ考えのようです。こうすれば上流側からの橋を押し流そうとする水の圧力を少なくすることができるからです。
        
        
橋の中央にはメッカの方向を向いて造られたミフラブがあります。(中央下部の窪んだ所。)
        
ミフラブの向かい側に石の椅子があります。

イヴォ・アンドリッチの作品『ドリナの橋』に、「ソコルル・メフメト・パシャは暗殺されるが、完成した白く美しい石橋は長く世に残り、人々の暮らしや時代の流れを見つめ続けることになる」と書き残しています。少年時代のアンドリッチはこの椅子に腰かけ、美しい橋を眺めながらいろいろな事を思いめぐらせていたのでしょうね。
        
イヴァン・アンドリッチ
この橋を語る時忘れてはならない一つに、ボスニア出身のノーベル賞作家イヴァン・アンドリッチが描いた「ドリナの橋」があります。
彼はこの橋の近くに住み、この橋を舞台に民族交流を数多く描いた作家です。その代表作が「ドリナの橋」で、この作品でノーベル文学賞を受賞(1961年)しました。作家であると同時に第一次大戦後に発足した、当時のユーゴスラビア王国時代には外交官を経験。第二次世界大戦中隠遁生活中に小説ドリナの橋を書き上げました、この小説は大宰相(パシャ)架橋するジ代から始まり、第一次世界大戦時にオーストリア軍が爆破するまでの400年間、橋と街を舞台にして起きた歴史事象を綴っています。

アンドリッチの生家は今でも橋のすぐ近くに残っています。現在は北欧の人の手に渡っているそうです。ボスニア政府は何とかこの家を買い取って博物館にしたいと思っているのですがなかなか譲ってくれないそうです。ネームプレートだけが貼ってありました。
        
これからバスで約3時間かけてサラエボに向かいます。あたりはだんだんうす暗くなっていきます。
山道に入ると少し雪が積もっていました。
        
無事宿泊のサラエボのホテル ハリウッドに到着。  

夕食はビュッフェ
        
        
ホテルの売店にはトルコのお菓子や焼き物が売られていました。