バルカン半島の旅   ボスニア・ヘルツェゴビナ     サラエボ

4日目 前半 サラエボ
今日はサラエボ市内観光からです。

サラエボ
サラエボボスニア・へルツェゴビナの首都で街としての形成は、オスマン帝国の統治下の15世紀からと言われています。宗教的な多妻制で知られ、イスラム教、正教会カトリック教会、ユダヤ教が何世紀に渡って共存してきました。覇権争いの中で。サラエボは戦乱の渦に巻き込まれて行きます。1914年、オーストリア皇太子夫妻が訪問した際セルビア人の犯人グループが射殺、第一次世界大戦(1914〜1918年)へと拡大。第二次世界大戦時には、ドイツがユダヤ人の多いサラエボを爆撃。そして、1922〜95年のボスニア・へルツェゴビナ紛争ではセルビア人勢力がサラエボを包囲、多くの市民が犠牲となりました。

市庁舎   オーストリアハンガリー帝国統治時代の1894年完成
        
旧市街のバシュチャルシアに入ります。
バシュチャルシアは、サラエボの旧市街のメインストリートです。トルコ語で「主要な市場」という意味です。中世から近隣の村々の市場として中心的役割を果たしてきました。
さらに交易の交交差点として人、物、お金が集まりました。
古い街並みの中にモスク、教会などが立ち並び、レストランや土産物屋が軒を連ねています。

中心部にあるセビリと呼ばれる水飲み場はいつもたくさんの鳩がいるサラエボのシンボルです。
  
広場から丘の上を見ると、無数の白い墓標が立ち並んでいます。これらは内戦の犠牲者のお墓です。
        
銅細工師通り
バシュチャルシアには80種類の職種類の職種区域がありました。
ここは現在も残っている銅細工職人の地域です。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年では〜95年)においてサラエボでは200万を超える砲弾が、炸裂ました。この市場ではその砲弾を用いた商品が沢山ありました。
        
昔のキャラバンサライ(隊商宿)を改装したカフェレストランもありました。
        
        
サラエボは宗教のモザイクとなっています。旧市街はそれほど広くないのですが、ちょっと歩いただけで、イスラムのモスク、カトリックの教会、正教の教会と回ることができます。

ガジ・フスレブ・ベイ・ジャーミア
ガジ・フスレブ・ベイ・ジャーミアは、大規模なモスクの事です。オスマン帝国支配時代のボス二ア州知事フレスブ・ベイが寄贈した1531年完成のモスクです。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の時にセルビア人勢力から、ボシュニャク人の象徴として攻撃対象とされ、損傷を受けました。紛争終結後の1996年から修復が始まり現在は修復されています。
        
        
        
モスクの近くに、ヨーロッパで最初に出来た公衆用トイレがありました。
                   
サラエボカトリック教会
        
教会の前の赤く見えるのは、サラエボの街で見られる「サラエボのバラ」
撃砲の砲弾による死者を出した爆発の跡を、後に赤い樹脂で埋めたそうです。
街にはいくつも点在していると言いますが、今回はここでしか目にすることは有りませんでした。

        
ラテン橋
旧市街を見学した後、再び大通りに出て 第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の現場に行きました。

ラテン橋はユーゴスラビア時代はプリンツィプ橋と呼ばれていました。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォ中心市街を流れるミリャツカ川に架かるオスマン帝国時代からの歴史的な橋です。

1914年6月28日、右岸から通りに入る曲がり角でガヴリロ・プリンツィプはオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻を狙撃し射殺しました。

このサラエボ事件から1カ月後、オーストリアハンガリーセルビアに宣戦を布告。ヨーロッパ史上最も凄惨な戦争のひとつに数えられる第一次世界大戦の端緒となりました。
現場は現在サラエボ博物館になっている建物の曲がり角です。
        
暗殺前にも、手榴弾での未遂があって、危険を感じた夫妻は予定の昼食を取りやめ。
次の目的地への経路を変えたそうです。それが、運転手にきちんと伝わっていなくて、予定通りの道を通ってしまいました。警備は、変更された道にいた為暗殺されたと言います。
        
バシュチャルシア内のレストランで昼食      メインはロールキャベツ
   
昼食後はサラエボからバスで約2時間 モスタルに行きます。