バルカン半島の旅   ボスニア・ヘルツェゴビナ  モスタル

4日目 後半
午後はボスニア地方のサラエボからバスで2時間の ヘルツェゴビナ地方のモスタルに向かいます。

へルツェゴビナはフムと言う地方でしたが、中世ボスニア王国の時代に、この地域の首長スチェパン・ヴクチッチが王国への巨従を拒否し、1448年ヘルツェグ(公爵)を自称。以来この地は、ヘルツェゴビナと呼ばれるようになりました。この頃はオスマン帝国の侵功時代で、1459年のセルビア1463年のボスニアに続き、1482年にオスマン帝国により、ヘルツェゴビナも征服されました。

モスタル
ボスニア・ヘルツェゴビナの南部にあるヘルツェゴビナ地方の中心都市です。
アドリア海にそそぐネレトヴァ川が街中央を流れています。1458年頃にオスマン帝国の支配となり、ボスニア中央部〜アドリア海への交易ルートの中継地として発展します。
この頃の街は、川を挟んで両岸に市街地が形成され、イスラム教の信者を主とする
ボシュニャク人とともに、セルビア人が共存していました。1878年オーストリアオーストリア・ハンガリー帝国)の支配下入るとカトリック信者のクロアチア人の入植が西岸で進み、1992年の内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)が起きる直前の人口比率はボシュニャク人35%、クロアチア人ノ34%、セルビア人19%。こうした状況下での内戦はモスタルでも住民間の凄惨な戦闘となり、今も建物の傷跡と共に感情的な対立が残る。

途中 奇妙な光景を目にしました。
映画ロケ跡の公園
ユーゴスラビアの実話をもとに1969年につくられた『ネレトバの戦い』という映画。
アカデミー賞候補にもなった映画はこの場所で撮影されました。
そのときに作られた崩れた鉄橋が、記念にそのままにしてあります。
    
    
        
ネレトバの戦いとは、1943年、チトー率いるユーゴスラビアパルチザンとドイツ軍やイタリア軍などからなる枢軸軍との戦いです。

枢軸軍からネレトバ川の谷間に追いつめられ、逃げ場を無くした劣勢のパルチザン
パルチザンが唯一逃げることができる橋も、対岸では敵が待ち構えている。
そんな中パルチザンは、自分たちでわざと橋を爆破します。そのようにして敵の目をあざむき、相手がそこから退去し手薄になっている間にこっそりと仮の橋を一夜がかりでつくり、対岸に渡って窮地を脱したという話。映画にもなっているその作戦がパルチザンを勝利へ導いたそうです。

パルチザンが勝ったことで、ユーゴスラビアは民族の垣根を越えて一つの国となり、複数の民族が共存する社会になりました。

ところがそれから50年後、民族同士の争いが起き、結局はバラバラになってしまったのです。

異なる民族が共存することは本当に難しい事だと、今回の旅を通して何度も実感しました。

スタリ・モスト
ネレトヴァ川に架かる石造りのシングル・アーチ橋で、全長30m。オスマン帝国時代の1567年頃に9年の歳月で完成しました。街の象徴であったこの橋は、内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中)の1993年に、クロアチア勢力が爆破したが、2004年に復旧され、2005年にボスニア・ヘルツェゴビナ世界遺産に登録されました。
モスタルにおける内戦は、最初の1年半は「旧ユーゴスラビアセルビア)勢力」対
クロアチア勢力+ボシュニャック勢力」の戦闘となり、橋の破壊は後者の、1993年クロアチア勢力が破壊しました。1995年に内戦が終結し、ユネスコの支援を受けたトルコ企業が再建したが、世界遺産登録に当たり、その歴史的価値だけでなく再建による多民族,多文化の共生・和解の象徴性も評価されました。

スタリ・モストは16世紀のオスマン帝国時代につくられたアーチ型の橋で、橋脚を持たないシングル・スパン・アーチとしては現存する世界最古のものとされています。イスラム建築の技術水準の高さを象徴する貴重な遺産です。
        
橋を渡ったところは、レストランが並ぶエリア
        

        

        

        

        

        
見学の後は宿泊するホテルに向かいます。
この付近も独立内戦時の爪痕が至る所に残っています。
        

        
モスタルで宿泊するホテル向いにも爆破されたホテルが。
        

        

        
夕食は宿泊のホテルブリストルで。メインはスパイシーなボスニアのハンバーグ