バルカン半島の旅   モンテネグロ  コトル

5日目前編  コトル
今回の旅の3ヵ国目の訪問国モンテネグロに向います。

国境を通過し、モンテネグロの国に入ります。

モンテネグロ 首都ボドゴツァ
モンテネグロという国名は「黒い山」を意味するイタリア語のヴェネチア方言が由来です。
国内のモン族構成は、モンテネグロ人が43%、セルビア人が32%です。もともとモンテネグロ人は、アルバニア人と同じ先住民族のイリュア人で、南スラブ人とは異なりますが、次第にスラブ化していきました。オスマン帝国時代にも王国形態を維持していましたが、第一次世界大戦オーストリアに占領され、次にセルビア軍に占領されました。以降セルビアと一体的な地域となり、1991年以降の旧ユーゴスラビア解体の流れでも、最後迄セルビアと共に旧ユーゴスラビアの残存しました。しかし、次第に独自の路線を取り始め、2006年に独立しました。セルビアもこれをすぐに承認しました。宗教は、セルビア正教会と、モンテネグロ正教会とが併存し合計で75%。他にイスラム教が18%です。

湾の対岸を渡るため、フェリー発着場に向います。
        
フェリーの発着場カメナリに到着。対岸のレぺタネ迄フェリ―までたった10分です。
大型豪華客船も、レぺタネに向っていました。 
        

        
コトル旧市街の後背地が見えて来ました。
アドリア海沿岸のこの地域は、複雑に入り込んだ湾を形成していますが、コトルはその湾の最も奥に位置しています。後方を激しい山々に囲まれ、その山に沿って城壁が築かれると,堅固な要塞都市として栄えました。
        

コトル
市街地の人口は約1万3千人、モンテネグロ人が50%、セルビア人が約30%。アドリア海東岸のリアス式海岸に、奥深く入り込んだコトル湾に面し、歴史的には海軍の中継地の一つとして発展した街。中世期は、ローマ化された都市国家の一つ、近郊のヴェネツィア共和国の一部となり、オスマン帝国対策とし、城壁の増強・延長ほかヴェネツィアの強い影響が市内の建物に残されています。アドリア海沿岸の中でも、中世の古い町並みが良く保存されていて、1979年に世界遺産に登録されました。
        
旧市街は城塞で守られています。入口の門は三つあります。私達は正面の海の門から中に入りました。正門にはライオンのレリーフがありました。翼の生えたライオンはヴェネチア守護聖人である聖マルコのシンボルであり、この像がある事からもかつてヴェネチアの支配地であったということが分かります。
    
正面入り口に入ると武器の広場です。
武器の広場に建つ、1602年建設の時計塔の下にある四角錐の柱は「恥の柱」と呼ばれる罪人の晒し台です。この広場は公開裁判の場であったようです。
        
        
ピマの館(プリマ宮殿)17世紀
        
聖トリプン大聖堂
カトリックの大聖堂。コトルの守護聖人トリプンを祀っています。9世紀の教会が起源。1166年にロマネスク様式で建造。宗派はローマ・カトリックに教会に属し、1667年と1979年の二度の大地震で損壊しましたが塔以外は1166年創建のままの姿をとどめています。現在は再建されています。
        
聖ルカ教会(セルビア正教会)
聖トリプン大聖堂と同じくロマネスク様式ですが、聖トリプン大聖堂より30年ほど後の1195年の建立。
こちらは正教会のほうです。ただし当初はカトリック教会として建てられたそうですが、17世紀に正教会の教会に変わったのだそうです。何とも不思議なことに、19世紀まではカトリックと正教の二つの祭壇が共存して置かれていたといいます。現在はセルビア正教会に属しています。
        
聖ニコラ教会(セルビア正教会)
広場を挟んで聖ルカ教会の反対側に建つ、これも正教会の教会です。塔の上にはスラブ系正教会の特徴である八端十字架。1540年に建てられたドミニカ会修道院があった場所跡に、1909年に完成した比較的新しい教会です。
        
昼食は武器の広場にあるレストランで
アドリア海の新鮮なシーフードを頂きました。
         

コトルは、本当に美しい街です。
10年ほど前に一度ここを訪れていますが、その時より観光客は圧倒的に増えていました。