バルカン半島の旅  マケドニア  スコピエ

8日目 前編  マケドニア スコピエ
今日はマケドニアの最大の都市スコピエを観光した後、いよいよ今回の旅国最後(6ヵ国目)の国
コソボに入ります、

スコピエ
スコピエマケドニア最大の都市で、政治、文化、経済、学術の中心です。
人口は約50万人。そのうちマケドニア人は67%ですが、アルバニア人も20パーセントと多くマケドニア語と共にアルバニア語も公用語の一つです。バルカン半島ベオグラードアテネの南北を結ぶ中間点に位置します。972年から20年間は、ブルガリア帝国の首都となり、1346年にはセルビア帝国の首都がおかれていました。1392年、オスアン帝国に征服され、約500年以上に渡り、オスマン帝国の支配が続いていました。現在でもオリエンタル様式の建築物の多くが残っています。1963年にスコピエ震災が起き、市内の80%が破壊されましたが震災後の都市計画の甥部分は丹下健三が策定しています。
この地はカトリック修道女マザー・テレサの生誕地としても知られています。

海抜1067mのヴォドノ山頂に十字架が見えます。キリスト教が出来て2000年の記念碑です。
        
城塞
スコピエ城塞はバルダル川の北岸、旧市街のスタラチャルシヤを見下ろす小高い丘の上に位置している城塞跡です。11世紀頃に建造されたものとされており、城壁からはスコピエの町が一望できます。
        

日本人建築家によって復興を果たした町スコピエ
スコピエは、マケドニアの全人口の3分の1が生活しています。
マケドニアバルカン半島のちょうど真ん中にあり、古くから多くの民族が行き交ってきました。町を一望できるカレ要塞は、6世紀にビザンチン帝国皇帝のユスティニアヌスが造った要塞のあとに、15世紀に侵攻してきたオスマントルコによって補強されたものです。

マケドニア地震の多い国です。16世紀の大地震により大きな被害を受けたスコピエの町は、現在の場所に町ごと移されたという歴史をもちます。1963年にも大地震が起き、甚大な被害が出ました。オリエント急行の停車駅だったスコピエ駅は、地震が起きた5時17分で停まったままです。日本の建築家丹下健三氏は、1966年から復興都市計画に携わりました。その際、スコピエ駅は新たな場所に作り替えられ、かつてのスコピエ駅は博物館として人々に開放されています。現在、スコピエの町は、高層ビル群が林立する大都市へと見事に発展を遂げました。カレ要塞に立って町を眺望すると、中央を流れるヴァルダル川に沿って、半円を描くように街が形成されているのがよく分かります。丹下氏は常に時代の最先端を歩んでいました。ガラス張りの近代的なショッピングセンターは、当時としては市民の度肝を抜く大変斬新なデザインだったようですが、現在では近代的な町並に見事に調和していました。
        

城塞から見た新しい競技場と町の様子
        
城塞を見学した後は、徒歩で市内を歩いて見学しました。

イスラムの教会 ムスタファ・パシナ・ジャミーヤ
スコピエオスマン朝によって陥落して間もない1492年に建てられたそうです。
マケドニアに数多く残るイスラム寺院の中でも屈指の造形美との事。
        
マケドニア広場
マケドニアの首都スコピエの中心広場です。
ユーゴスラビアからの独立が初代大統領により宣言された場所として知られています。

カメン・モストと呼ばれるこの石橋は、オスマン・トルコに支配されていた時代のもの。
ちなみに、オスマン朝の支配は1592年から520年間続いたそうです。
        
スコピエの中心地。後方中央に見えるのはアレキサンダー大王像。
        
マケドニア広場から少し歩くとマザー・テレサの生家跡とマザーテレサ記念館があります。

マザー・テレサ生家跡
1910年スコピエで誕生した本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ=マザー・テレサスコピエは当時はオスマン帝国領でした。
両親はアルバニア系のカトリック教徒。18才までスコピエで過ごしました。1931年からインドのカトリック教会の修道女として最下層の人たちを救済。
彼女の活動は修道女たちによって全世界に広められた。1979年ノーベル平和賞、1983年エリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けました。
        
白線で印のしてある所が彼女の生家跡です。とても狭い敷地です。
        
マザーテレサ記念館(白い建物)とマザーテレサの像
        
マケドニアスコピエを見学した後今回の旅で訪れる最後の国コソボのブリズレンに向います。またまた国境越えです。