バルカン半島の旅   コソボ    プリズレン

8日目 後編 コソボ 
マケドニアとの国境を通過して最後の訪問国コソボに入りました。
最初の観光地はプリズレンです。

コソボ共和国  首都プリシュテナ
人口180万人。アルバニア人が約92%。セルビア人が歴史的には多い時代もありましたが、コソボ紛争などで難民化し、現在は約4%。12世紀頃にバルカンで勢力を増していたセルビアは隣接のコソボ地方のセルビア王国正教会)に侵攻し、コソボで激突。コソボオスマン領となります。やがてイスラム化が進められ、概してアルバニア人キリスト教からイスラム教徒への改宗が多く、一方セルビア人は正教会組織や富裕度に違いがあり、改宗は少数でした。抑圧されるセルビア人はオスマンへの反抗を強めますが、コソボからの大規模な脱出も相次ぎました.他方多数民族ながら被支配民族のアルバニア人は19世紀後半より民族主義が台頭、自治権獲得に動きますが1912年からのバルカン戦争の結果、コソボオスマンからセルビアの支配に変わります。第二次世界大戦後、社会主義国ユーゴスラビア連邦コソボセルビア自治州とされ、1970年以降、セルビアを相手にした民族運動が激化します。次第にアルバニア人勢力は過激になり、テロ化します。他方でセルビア(旧ユーゴは)アルバニア人の抑圧政策を取り、ついに1996年アルバニア勢力によるセルビア治安部隊への同時多発工芸によりコソボ紛争が勃発し、激しい武力衝突、双方での虐殺が行われ、大規模な難民が発生しました。1999年にコソボは国連のミッションによる暫定統治下に置かれ、セルビア軍は停戦のため撤退しました。しかし、2004年には国内で住民の暴動が起きました。他方コソボの地位自体は未解決でしたが、2008年にコソボは国連の暫定統治下で一方的に独立宣言をします。
この独立を西側諸国や日本は承認しますが、セルビア、ロシア・中国は反対。このような状態で、現在国際社会で完全には国として認めていられていません。

プリズレン人口約17万人で大半がアルバニア人です。プリズレンとは古代セルビア語で要塞という意味です。1208年にセルビア王国がプリズレンを獲得し、セルビア正教の寺院を築いたほか、政治、経済等の中心地として繁栄しました。1455年にオスマン帝国が統治した以降も交易路の要所として重要視されますが、住民はセルビア人正教徒に替り、アルバニア人移民(イスラム教)が入って来ます。19世紀にはアルバニア民族主義が強まり。1878年アルバニア人国家統一を掲げるプリズレン連盟の結成が行われました。1990年代のコソボ紛争では、セルビア軍がプリズレン連盟の建物や、モスクの破壊などでを組織的に行いました。他方2004年に起きた反セルビア人暴動ではアルバニア人が、正教会の歴史ある教会を次々に破壊しました。

ガーズィ・メフィット・パシャ・ハマム跡

1564年の築造で、1944年までハマム(大衆浴場)は市民に利用されていたそうです。
        
少し遅い昼食をビストリツァ川のレストランでシシケバブを頂きました。
ケバブは少々塩辛かったのですが、全体として美味しかったです。
        

        
     
プリズレンの石橋 

       
山頂にはプリズレンの名前の由来となった要塞が見えます。
11世紀にビザンティン帝国が築いた要塞を、セルビア王国の時代に増強。さらに15世紀半ばのオスマン帝国が拡張されました。
        
市庁舎
市庁舎の壁にはコソボの独立を承認している国々の名前とその国の言葉で「ありがとう」と書いてあります。
日本への感謝の言葉もありました。下半分はこれから承認してくれる国々のためにスペースが空けてあります。)
        

        
コソボを承認している国と非承認国。
それぞれの立場の国は分かりやすいぐらいはっきりと二つに分かれています。
下記の画像の青が承認国家、赤寄りの色が非承認国家です(Wikipediaより引用)
        
リェヴィシャの生神女教会
鉄条網で閉ざされているので、道から鉄条網の間から写真を撮りました。
この教会の建立は14世紀ですが、残念ながらいまは廃墟です。
アルバニア人セルビア人の対立の渦中で無残に破壊されたといいます。
「リェビシャの生神女(しょうしんじょ)」というのは、生神女マリアが幼子イエス(を抱いている宗教画(イコン)に由来しています。
        
プリズレンからプリシュティナに移動、そこから5km離れているグラチャ二ツァという村にあるグラチャニツァ修道院に向います。

グラチャニツァ修道院
世界文化遺産コソボの中世建造物として登録されている四つのセルビア正教会寺院の一つ。
この修道院は、セルビア王国の王ステファン・ウロシュ2世ミルティ(在位1282〜1321年)が
たてた最後の物で、この修道院に数多くの修道僧が集まり、非常に神聖で芸術的な活動を発展させました。1380年頃にオスアン帝国がせめて来た時に、施設はかなり損壊しましたが、教会の建物は創建時のものだそうです。オスマン帝国の支配時にはモスクに転用されましたが20世紀初頭にセルビア正教の聖堂に戻されました。フレスコ画は、創生された当時の古いものもあります。

内部の写真撮影は禁止されていました。
        

        
ここには修道女が住んでいます。
        
宿泊はプリシュティナのエメラルドホテル
  
夕食はホテルで