やきごめ

先日バスツアーで広島県に節分草を見に行った折、庄原市総領町の道の駅リストアステーションで買ってきたお土産「やきごめ」。私にとっては初めて知るお米の食べ方です。

「やきごめ」今まで、聞いたこともありませんでした。これを購入したきっかけは、ツアーで
お隣の席に座られた方が「あの 話していたお米よ」と大きな声で私に教えて下さったからです。 あの話していたお米、そのお話は又後でほんの少しご紹介します。

購入したお米には神石高原町の標高500メートルの豊かな自然の中、清流で育てたお米から作られたものです。戦国時代に兵ろうとして、将兵の士気、体力を支えたのが「干し飯」です。今は「やきごめ」の名で伝えています。と書かれていました。

道の駅「リストアステーション」『リストア』とは『蘇る』という意味で、過疎化の進む町の再生を願って名付けられたそうです。こちらで「やきごめ」を購入。
          

          

          

早速頂いてみました。熱湯を注ぐだけで何とも言えないもちもち、香ばしい 食べ応えのある 
噛めば噛むほど味がある 素朴な美味しいご飯のできあがりです。

今回は素朴に頂いてみました。

お茶碗に6分目「焼米」を入れます。少量の塩を入れます。
          

熱湯をたっぷり入れて(2〜3分)香り高い汁をお召し上がり下さい。と書いてあったので、頂いてみましたら、本当に美味しい。
          

さらにお湯を注ぎ好みの柔らかさに(お塩だけで頂くのが一番おいしかったです。)
          
         
焼き米(やきごめ)
[ 日本大百科全書小学館) ]によると
米を籾のまま焙烙などで炒ってついたもの。炒り米。昔は種籾(たねもみ)は、発芽を促すために7〜10日間も水に浸けてから播いた。厚播きであったし、補植用の種籾も用意したので、大量の種籾の残ることがあった。芽の出かかった種籾は、脱穀して飯に炊いても、まずくて食べられないので、それらを焼き米にして「おやつ」として食べた。保存食料・携行食品としても利用された。また、種播き前の水口(みなくち)祭や、収穫祭に先だつ穂掛け祭には、新穀を籾のままで炒り、田の神に供えることが広く行われた
 

買ってきた「やきごめ」は とても美味しく、300gで(道の駅では480円)と、今ではお安くはありませんが、昔は残ったお米で作ったものだったので、きっとお味も違うでしょう・・・。

もう一度食べたいお味ですし、保存食 非常食(そのままでも食べられるそうです)としても良いので、取り寄せようと思っています。

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     バスツアーでお隣の席のご婦人から聞いた 私の知らなかった歴史

バスツアーでは、知らない方とお隣になることが多々あります。これが又楽しいのです。1日中バスの中ではお隣ですので、話も弾みます。しがらみがないので、気軽に色々なことを話す方もいらして、新しい趣味や知らない世界などに触れることが出来ます。

今回 お隣に座られた、おしゃれで、品の良い物静かな方は、昭和7年生まれの80歳。63歳まで仕事をしていて今は国内外の旅や俳句を楽しんでいる方でした。その方が話されたことは、私の知らない昭和でした。

「私 韓国から引き揚げてきたのよ」
中国からの引揚者のことはよくTVで見ますし、お話を伺ったこともあります。でも、私は今まで韓国からの引揚者のことはあまり知りませんでした。

「父親が福岡から韓国に移住し、農地を開拓し、その後親せきなども呼んで現地の人を使って
お米等を作っていたのよ。」ブラジルなどに移民して開拓する話はよく聞きますが、韓国にも移民する人がいたことは知りませんでした。その方が少しだけ話された事をそのままここに書いているので、その方のお父様の苦労話などは分からず、詳しい事実の流れは定かではありませんが・・・・・。

昭和20年、終戦。状況が一変。それまで築いた全ての物を置いて、少しの家財道具を船で送り、母親と、子供3人で(前の年に父親が亡くなった)九州に引き揚げてこなくてはならならなかったそうです。船で送った少しの家財道具も、日本に着いた時には3分の1になっていたそうです。

「あちらでは日本人と言うことで大変な思いをされましたか」と伺ったところ、周りの人は自分の田畑で働いていた人なのでつらい思いはしたことが無いと話されました。その話の流れから・・・

日本に引き揚げることが決まった時、朝起きてみると、雇っていた人が、何も言わず稲を刈り取っているので驚いたが、もう引き揚げるのだしと何も言わずにいたそうです。
「引き揚げる日に、お米を沢山持ってきてくれたのよ。
わらの中にモミのついたお米を入れ、燃やすと、蒸した状態になり、そのままでも食べられるし、保存食になるの。それを沢山つくって持ってきてくれた。稲を刈っていたのはそれを作るためだったの。」

バスの中では小さな声で話さなくてはならないし、記憶力に自信が無い私ですので
細かい所は違っているかもしれませんが、大まかな話はこのようなことでした。
ご婦人は、その出来事がとても心に残っているようでした。

そして、道の駅で見つけたものが、その方法に似た方法で作られたやきごめだったのです。
「それ以来、食べたことも、見たこともなかったので、やきごめを目にするのは、昭和20年以来初めてよ」 となつかしそうでした。

話していたお米が見つかるなんてなんて偶然なのでしょう。
(やはり、「焼き米」は今では珍しいのですね。)

13歳で日本に帰ってからの生活は、それはそれは大変だったそうです。

御産婆さんの資格を持っていた彼女のお母様は、すぐに仕事があったのですが、当時戦後のことで風紀が乱れいて(彼女はそう表現されましたがネットで調べたところ悲しい、悲惨な現実があったようです。福岡の二日市保養所の存在も今回調べていくうちに初めて知りました。)
「普通なら、赤ちゃんが産まれて1か月間ぐらいは御産婆さんは時々その家に通うのに、2,3日で母は行かなくなることが多くなったの。その時は不思議だなと思っていたのよ。」そんなことばかりが続く中、母親も産婆と言う仕事に耐えられなくなり、違う仕事をしなくてはならなく、子供を預けて働かなくてはならなかった。

引き揚げ者は家もなく、頼る人も少なく、兄弟3人は ばらばらに遠い親戚の家に預けられたそうですが、そこでは働き手としか見られず、学校にも行けなかったそうです。
2人の男の兄弟は、炭坑に働きに行ったけれど、辛くて長くは働くことは出来ず、いろいろな仕事をした後、船(貨物船)に乗ったと話されました。

「当時は戦争後で適齢期の男性も少なく、結婚もせずに働き通しだった、今が一番幸せ。学校も出ていないので、安いお給料の中での生活は大変だったけれど、若い時はおしゃれも、ぜいたくも何もせずに、その中から少しずつ別貯金として、将来の旅行代金として貯めて来たものを今使っているのよ」と話されました。

品の良い「苦労」と言う言葉とは無縁のようなご婦人が語る、私の知らない昭和です。

昭和に生まれた私が過去にこのようなことがあった事を知らなかったことは、とても恥ずかしい事です。