ナスカの地上絵・イグアスの滝・マチュピチュ遺跡  南米13日間の旅  最終 リマ編

11日目今日は旅の最後日。
今回の南米の旅では、旅の拠点としてリマに5泊することになりましたが、リマの観光は旅の3日目のバチャカマ遺跡観光をしただけでした。今日は世界遺産リマの旧市街を中心に観光します。

朝はゆっくりと過ごし、お昼少し前にホテルを出発します。
宿泊したホテル「ニューコルパック」は空港から車で約30分ほどのリマ市内の静かな住宅街にある小さな
ホテルです。ホテルは周りを有刺鉄線で囲ってあり、入口には鉄格子の門がついています。

付近には高級住宅地が立ち並んでいました。
         
このような豪邸も立ち並ぶ一方で、リマには急斜面の山の上までびっしりと粗末な小屋が立ち並んでいる光景も見られました。雨が降らないリマ市には山の緑は少なく、禿山が不法住宅地として占拠さます。
雨が降らないので屋根のない家もあります。現在このように山の斜面のスラム街に住む人は200万人にものぼるそうです。
         
今回の旅の2日目にリマに着いた途端、ガイドのカルメンさんから「指輪やペンダントなどは つけないように」と注意がありました。そしてホテルによっては有刺鉄線を張るほどリマは治安が良くないようです。

バスがホテルを出発しようとした時、カルメンさんが「今日は鉱山で働く人のデモが、アメリカンハイウエーを通り、リマに向かって来ているので混乱が予想されます」とおっしゃいました。
ペルーの金の鉱山で働く労働者が政府が 導入した鉱山労働者を規制する新たな法律に反発してのデモのようです。
ペルーの産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業です。特に銀は世界第2位の産出量です。
石油やガスなどの天然資源も産出するのですが、貧富の差が激しく、一部の富裕層だけが豪華な生活をおくっているのに対し、人口の約半数にあたる貧困層は、様々な社会的サービスを享受できず、厳しい生活を余儀なくされているようです。

リマにたどり着いたデモ隊
         

リマ市では2010年になって専用レーンを走る連結バスメトロポリターノが開業したものの、まだ路線は1本だけ。そして2012年に開通したばかりのペルー初の通勤電車、メトロ・デ・リマも現在のところ1号線が部分開通しただけで、全線が高架となっていて地下区間はまだありません
主な交通機関は自家用自動車とバスが普段の移動の手段となります。毎朝道路はバスで一杯になりますが、このバス、小型のバスが使われています。自家用車も日本・韓国・アメリカの中古品が多いようです。

元の日本の所有会社の名前が書かれたまま走っている中古車
         
         
3泊したシェラトンホテルに近づいて来ました。ホテルの前の広場がグラウ広場です。
旧市街のセントラルに建つシェラトンホテルの向かいは最高裁判所、並びにはイタリアンアート美術館、すぐ近くに軍事博物館やリマ美術館もあります。
         
イタリアンアート美術館
         
シェラトンホテル
         
旧市街のアルマス広場の周りには、スペインの統治時代に建てられた壮麗で豪華な建造物が数多く建ち並び、当時の繁栄を現在に残しています。

「リマ歴史地区」は1988年12月9日〜1991年12月13日世界遺産に登録されています。

アルマス広場を核にした旧市街は、カテドラルをはじめ、スペイン統治時代に建てられたコロニアル様式の歴史的建造物が多くあります。

大航海時代にスペインからやって来た征服者、フランシスコ・ピサロは交易の利便性などを理由に、1535年に太平洋岸に近い場所に新しい首都の建設を始めます。まず、キリスト教の布教、そして自らの権力の象徴を目的に大聖堂の建設に着手。南米中から集めた金で飾りつけられた祭壇、スペインから芸術家を呼び寄せて作らせた聖歌隊席の精巧な彫刻が残されています。

アルマス広場に行こうすると、デモ隊の侵入を防ぐため警官が道をふさいでいましたが、観光客は通してくれました。
         
          
大統領官邸大統領官邸(かつてのピサロの館)
大火災で焼失し1938年に修復されました。
ガイドのカルメンさんが、「フジモリ大統領時代は、時折、大統領自ら外に出てこられて民衆に手を振られることがあり、この広場に大勢の人が集まって賑わっていました。」と懐かしそうに話されました。
         
旧市街には、スペイン人支配の色濃い建設が目につきました。
「黄色」は「幸せ」の色だそうです。凝った造りのバルコニーも印象的でした。

写真右端の噴水は17世紀に建てられたもの
         
バルコニーがとても美しいリマ市庁舎
         
カテドラル
南米きっての征服者、フランシスコ・ピサロが自らの手で礎石を置いたペルーで最も古いカテドラル
         
         
リマ中央駅
路地裏にひっそりと建つ、人の気配があまりない リマ中央駅は南米で始めて建設された鉄道であり
セロ デパスコの銅や鉛を運ぶため世界最高点4829mを通過する鉄道でした。
現在は貨物専用の駅となっているそうです。           
         
         
駅周辺の建物
                 
サンフランシスコ教会
コロニアル建築の最高傑作とも言われているサン・フランシスコ修道院には、バロックとスペイン南部のアンダルシア様式が取り入れられています。セビリヤから持ち込まれた青と黄色の鮮やかな装飾タイルや、階段の上のドーム型の天井の星型の彫刻などが今も当時のまま美しい姿で残っています。地下室には植民地時代に葬られた25000体の骨があります。
         
サン・クリストバルの丘の丘が遠くに見えるレストランで昼食
         
ペルーで良く飲まれている 紫トウモロコシのジュース「チチャモラーダ」を頂きました。

ラルコ博物館資産家だったラファエル・ラルコ氏が、個人的に収集したコレクションを一般公開している博物館です。モチェ文化の土器を中心に、モチーカ文化、チムー文化、ナスカ文化の土器や黄金製品を中心に収集されています。
展示物はもちろんのこと、プレ・インカの遺跡の上に建てられたという瀟洒な館や美しい庭や花々は
眺めるだけでも充分に楽しむことが出来ます。

展示室は大きく4つに分かれていて、一つ目は黄金装飾を展示したもの、二つ目は土器などを文化ごとに展示したもの、三つ目は土器だけ展示してあるもの、一般展示室、少し離れたところに性に纏わる土器だけを集めた展示室もありました。

黄金の装飾品は凄く眩く、鼻飾り、耳飾、首飾り、冠、指輪等様々な黄金製の装飾品や儀式用の品々が並んでいました。
先スペイン期社会の宗教的・社会的指導者らは、早期から、特に頭や首を中心に、鼻飾りや王冠、 耳飾り等の装身具を身につけました。これらの装身具は、指導者の地位や優位性、聖なる出自などを 広く知らしめました。装身具は、「仮面」として機能した訳ではなく、これらを身に着ける人物が、自らとは異なる身体や 人格を得る役割を果たしたということです。
          
                          
博物館へ入るまでの庭園の美しい花々。ここは庭園のコンテストで1位になったそうです。
          
          
          
                 
博物館内のトイレ入口
                   
この博物館で一番驚かされたのは未成年者の頭蓋骨に圧力を加え、頭を長くしたり、頭の真ん中をへこませたりと変形させる習慣があった事です。
帰国してから調べて見ると、古代アンデスに限らず各時代、地域によって違いはあるものの他でも行われていたようです。

今回の旅の観光地見学は全て終わり。
深夜1時30分リマ発のロサンゼルス行きに乗るまでには時間があります。

Poco a pocoと言う日本人オーナーのお土産物屋さんに寄りました。
奥さまはインカの伝統を取り入れた織物を自ら織って日本でも個展を開いて好評を得ている方です。

お店は普通の家で、他の家と同じように大きな2重の扉があるだけです。
ガイドさんが事前に連絡してあり、ブザーを鳴らすと、お店の方が扉を開けて下さいます。
          
店内は良い品物がリーズナブルなお値段で並んでいます。もっと早くここに来たかったという人が続出。

外は美しい夕暮れ
          
レストランで今回の旅の最後の夕食を頂きました。
ペルー版コロッケはパパレジェーナ ペルー名物料理ロモ・サルタード「牛肉料理 」
         
12日目
いよいよリマをたちます。厳しい空港での検査も終わり、日付けはすでに新しい日に変わっています。

数回の荷物の検査を受け出発ゲートへ向かいます。やっと飛行機に乗れると安堵していたら、搭乗が始まった途端、私の名前が呼ばれているではないですか。  
なんと搭乗口の前で選ばれし数人が手荷物をすべて開けさせられ厳しい検査。
カメラはシャッターを押されカラ撮影。ウエットティシュのようなもので手を拭かれ???何か試薬がついているのかしら・・・・?これ何の検査ですか?  聞いても教えてくださいませんでした。

南米からアメリカに向かう飛行機の搭乗はとてもチェックが厳しいのです。

13日目約9時間のフライトの後ロサンゼルスに到着。その後又約12時間のフライトで、やっと成田に到着!

今回の旅は移動も多かったですが、行程の組み方が良いコースだった為か思っていたよりも楽な旅でした。

リマでのガイドカルメンさんはご両親が沖縄出身という日系2世。とても美しい日本語を話される品の良い女性。リマからナスカの地上絵を見に向かうパン・アメリカンハイウェイの途中にある「カニェテ」という海岸を通った時、1899年遥か日本からこの地ペルーに初めて移民が到着しました港であると教えてくださいました。「佐倉丸」と呼ばれる船にのった、山口、広島、岡山などからの移民約790人は長い船旅の末、新しい生活を求めてこの地に立ったそうです。その後次々と移住してきた日本人は当時は主に農業に従事し、厳しい生活を送っていたそうです。しかし、日本人の持つ「勤勉さ」でペルー社会の中で徐々に溶け込み、社会的地位を向上させていったのです。
1990年のフジモリ大統領就任の頃になると、日本人はペルーに欠かせない大切な存在になっていたということです。
カルメンさんはフジモリ元大統領の数々の 功績も話してくださいました。

ブラジルでのガイド木村さんも日系の方で 日本のバブル期に当たる1980年代後半から日系ブラジル人 が日本へ働きに行った事などを話してくださいました。

クスコとマチュピチュでのガイド ペルー人のオスカルさんは、日本にも留学したことがあり 日本語がとてもお上手でした。

ガイドの皆様、南米に精通していらっしゃる添乗員の吉盛さん有難うございました。
移動時間の多い長い旅でしたが、参加者24名の皆様と思い出深い楽しい旅をすることが出来ました。

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