イースター島・タヒチの旅   イースター島  オロンゴ鳥人儀式村

5日目(3)
ラノ・カウ展望台
鳥人村を廻る前にラノ・カウ火山展望台からカルデラ湖を鑑賞。

ラノ・カウ火山のカルデラの直径は1600m、内側の壁の高さは200m、そして火口湖の水深は150m、葦がしげる火山湖の水面には、青い空が映り、息をのむ美しさです。日本で言う葦(アシ)とは違いトトラと呼ばれるもので、底から生えているのではなく湖の中にはトトラの島があり浮かんでいるのです。

ラノ・カウは島に3つある火山のひとつでカルデラ湖の大きさは最大。現在も島内最大の貯水庫として飲料水の供給源になっているそうです。ラノ・カウのクレーターは、島の言葉で「天を見る目」といわれています。
        
オロンゴ鳥人儀式村
モアイ倒し戦争の後ここでオロンゴの鳥人儀式という宗教的な儀式が始まりました。
その儀式は、現在のトライアスロンのような競技です。断崖絶壁を下り、2km先の島まで泳ぎ、春先に渡ってくる軍艦鳥が洞窟の中で卵を生むのを待ち、その卵を割らずにまた海を泳いで、崖の上まで持って帰ると言う競技です。儀式は1年に1回行われ、優勝者を出した部族の長が、1年間、島の政治的、宗教的、絶対権限をにぎる「鳥人タンガタマヌ」になります。

参加者達は、村を後にし、島の南西端、ラノカオの麓のマタべリ(今の空港がある場所)に移動し、そこに滞在して、数々の儀式に必要な小道具や飾りを用意します。儀式用の衣装を付けた男達は、「ラオの道」と呼ばれる小道を通って儀式の行われるオロンゴの儀式村に着くのです。
        
沖に浮かぶ3つの島のうち一番 遠いモトゥ・ヌイまで泳ぎ着き渡り鳥の卵を持って戻ってくるのです。
ここは潮の流れが速くサメもいます。
断崖絶壁で足がすくみます。

卵を探す使命を帯びたものたちは、葦で作った円錐形の浮きに長期滞在のための保存食を積んで海を泳ぎ、島に上陸すると小さな洞窟に住み、卵を手に入れる機会を待ちます。

何故このような儀式をしたかというとそこには鳥人信仰があります。
頭は鳥、身体は人間、という鳥人、タンガタマヌは、大気の創造神マケマケの化身とされます。タンガタマヌは、強いマナ(霊力)と、超自然の力をもつ、救いの神として崇拝されていました。鳥人になるための、過酷なレースがおこなわれていたオロンゴには、マケマケ神や、鳥人、カヌー、豊饒のシンボル コマリの岩絵、岩面彫刻が500以上も存在します。イースター島文化遺産の宝庫、と言われる由縁です。
        
ここにある岩は玄武岩で、モアイの凝灰岩よりは強いけれど、決して強い岩石ではありません。
これらもいつかは強風と潮風にさらされて風化してしまうのではないかと懸念されます。

オロンゴには、儀式の際に使用された石を積み上げて作られた石家が53戸ありました。(現在51の岩屋が復元されています)儀式に参加するポフマヌや、神官、語り部など大会関係者のための「選手村」のようなものです。

ポフマヌは儀式の始まる2〜3ヶ月まえからここに泊まり込み、訓練をしたと言われています。儀式中は400人ちかい人たちが、ここに寝泊まりしていたようです。石の家は斜面を活用して建てられており、海側の壁は弧の形にカーブしています。室内は広くありません。挑戦者達が産卵を待つ間、オロンゴでは、さまざまな儀式によって神を味方にしようと、人々は家の前で踊り、聖像を祀る岩屋の中で昼夜分かたず聖歌を唱えたそうです。
当時の様子を想像しながら歩きました。

岩屋の入り口はとても低く、入り口にかかる長方形の石には彫刻が施され、部屋の中にもマケマケ神をあらわす絵が彫られたそうです。またそれぞれの家の前には調理用のかまどがあったそうです。

鳥人の生活
モツ・ヌイ島から帰ったホプは、髪、眉毛、まつ毛をそり落とし、待っていた首長に持ち帰った卵を渡します。最初の卵を手渡された部族の長はその瞬間に新たなる鳥人となり、カオ一面に赤と黒の線を引き、背中に木製の鳥をくくりつけ、にぎやかな行列の先頭に立って、マタべリに降りていきます。人々は歌い踊り、神官または鳥人自身が指名した犠牲者が生け贄としてマケマケ神に捧げられました。その祝宴の場所がアナカイタンガタ(食人洞窟)です。食人は「相手のマナを自分の体内に取り込む」という儀式として重要でした。

その年の新しい鳥人はラノ・ララク火山の麓の家、あるいはアフ・トンガリキなど重要なアフの足下の家に引きこもります。鳥人には様々な厳しいタブーがありました。家を出ることは許されず、身体を洗ってもいけない。禁欲生活を守り、専用の炉で特別な従者が炊事した食物しか食べることは出来ません。髪も爪も切らず、また特別な人となった印に人間の髪で作ったかぶりものをしました。鳥人鳥人=王であり、鳥人=神)として君臨する一年間は、政治的、経済的にさまざまな恩恵にあずかりました。一年たつと鳥人は住居を引き払い、かつての仕事に復帰しましたが、その後も生涯尊敬され、祭りの時には特別な位置を占めました。また、鳥人だけが葬られる特別な場所に埋葬されたそうです。

オロンゴ儀式村の遊歩道に沿って歩いて行と、突然大きな火口湖が現れました。儀式村に来る前に展望台から見たラノ・カウ火口湖です。オロンゴ儀式村が火口湖を後ろに、前が絶壁の海に位置している場所にあったことが良くわかります。
ラノ・カウは島に3つある火山のひとつでカルデラ湖の大きさは最大。

島全体がキリスト教に改宗されても続けられていたこの儀式が終わるのは1866年。イースターの社会がカリスマ的存在の鳥人を必要としなくなったのか、あるいは、西洋人による奪略が盛んに行われ、島の人口が激減して自分たちの支配者を選ぶことよりも、既に強大な権力によって島は支配されてしまったのか定かではありません。

イースター島の悲劇
イースター島の悲劇は、外敵がなく、農耕や漁業に発展性がなく祭事に偏った文明を持つに至り、無計画な森林伐採を行ったことから、食糧難になり部族間の武力闘争という自滅への道を進むこととなったこと、また時代が進むと、世界との距離が近くなり、島の外から病気や権力の影響を受けることで、打撃はさらに大きくなってしまったことに寄ると言われています。

モアイ像は、遠くポリネシアから流れ着いた住民たちが、神格化した先祖信仰のために作りはじめたのですが、しだいに力の象徴として競って巨大な像の大量生産が進められました。モアイを運んだり祭壇に建てるためには、大量の木材を必要とした為、無計画な伐採は、豊かだった森を荒らし、土地を衰えさせ、やがて住民の生活へと影響を与えるようになったのです。その結果 部族間では食料の奪い合いが起こり、部族間の闘争が激しくなると、敵部族のモアイを倒しました。モアイの目をつぶすことは、彼らの戦いの上で大きな意味を持っていたといいます。

この様に19世紀半ばに島内で起こった戦争によってほぼ完全に滅びたのは、環境破壊のために資源が枯渇し、残された資源を巡って紛争が勃発したため島の人口が壊滅的な被害を受けたというのがイースター島の歴史として半ば定説化されていますが、イースター島の文明が滅びたのは「戦争ではない」という新説も提唱されています。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校のカール・リポ教授らによる研究チームは、これらを否定する新しい説と、それを裏付ける証拠を発表しています。リポ教授が唱えているのは18世紀ごろに島を訪れたヨーロッパ人によってもたらされた病疫が人口を激減させたという説で、教授は「ヨーロッパ人が到来するまで、島で大規模な人口破壊が起こった形跡はみつからなかった」としています。

本来この島の名前は 住民の言語で「ラパ・ヌイ」 広い大地という意味です。
1722年、オランダ海軍が太平洋上に浮かぶ孤島を発見し、その日がイースターだったことから「イースター島」と名付けました。多くのモアイが立っていて、島民たちが火を焚いて祈りを捧げる姿を目撃したと記録に残しています。

その後1774年に探検家のジェームス・クックが上陸。モアイ像の半数以上が倒されているのを確認し、作業途中で放置されたモアイ像の数の多さに驚いたといいます。

奴隷となった住民たち
18世紀〜19世紀にかけてペルー政府の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出されていきました。また外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るった結果、人口は更に激減し先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時の島民数はわずか111人に落ち込んでしまったのです。

現在のイースター島は草原が広がり、ポリネシア系の住民約4000人が暮らし、島のあちこちに沢山の馬や牛が放牧されている のどかな観光地です。

ただモアイなど遺跡は残っているものの、独自の言葉や文字は失われ、文化もほとんどが失われてしまっています。しかもラパ・ヌイの半数以上が外国や本土の人と結婚、遺伝疾患を防ぐため近親婚を避ける傾向が強くなっているのです。

ラパ・ヌイ(イースター島)は1888年にチリ領になり現在に至りますが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、アメリカ合衆国、イギリス、日本に対して打診がありました。日本は主に漁業基地としての有用性を認めましたが、在チリ国公使三宅哲一郎からアメリカ合衆国との関係に配慮して静観すべきとの意見が出されました。

宿泊したホテルの事
        
宿泊した素晴らしいリゾートホテル「ハンガロア」の敷地約1万㎡は先住民のある一族の代々の土地でした。1970年、一族の代表がチリ政府に20年契約で貸した土地は軍政下の81年、勝手に売却され、2007年にスペイン資本でハンガロアの建設が始まったのです。約60人の一族は、ラパヌイ以外の土地所有を認めない先住民保護法を盾に、半年間、完成直前のホテルを占拠しました。「スペイン語が読めない高齢者に無理やり署名させた」と一族の長老格ペドロ・ヒトが訴えました。政府は補償金1億チリ・ペソ(約1700万円)を提示、ホテル側も雇用を約束したそうですが、これに反対し自分たちの土地に住み続けることを主張しました。しかし裁判所は契約書に一族代表者の署名があったことを理由にホテル側勝訴の判決、座り込みは警官隊による強制排除で終わったのです。

ラパヌイは1967年に市民権を獲得、民政移管後の93年には先住民保護法が制定されました。95年に島の42%がユネスコ世界文化遺産に指定され、観光客が急増しています。

いよいよイースター島ともお別れです。

長い事憧れていたイースター島は、実際に行って見ると謎は深まるばかり、考えさせられることも沢山あるものの、それも含めて益々この島に魅力(興味)を感じます。2泊3日という短い日程でしたが、私にとってはかけがえのない旅になりました。

これからチャーター機で、タヒチパペーテ)に戻ります。次回のブログからは、イースター島に来る前に宿泊したモーレア島、これから行くボラボラ島、そしてタヒチ島の様子をまとめてご紹介したいと思います。